読書日記(2023.9.23) 人権という概念

ヘーゲル 『法哲学 上』 岩波文庫


哲学は理念を問題にすべきであって、それゆえに世間では単なる概念とよび慣わされているものを問題にすべきではない。むしろ、哲学は、単なる概念といわれるものの一面性と真理でないことを明らかにするとともに、概念(ひとはしばしばそのようによばれているのを聞いてはいるが、単に抽象的な悟性規定にすぎないようなものではなく)こそ現実性をもつものであり、しかも概念がみずからに現実性それ自身をあたえるという仕方で現実性をもつものであることをあきらかにする。概念自身によって定立されたこの現実性でないものは、すべて過ぎ去りゆく定在にすぎず、外面的な偶然性、臆見、本質を描いた現象、真理でないもの、錯覚などである。概念がみずから現実化することで自分にあたえる形態化は、概念自身の認識にとって、単に概念として存在するという形式からは区別された、理念のもうひとつの本質的な契機である。

ヘーゲル 『法哲学 上』 緒論(1) 岩波文庫 P.45

英語では、理念はイデア=idea、概念はコンセプト=conceptである

『概念こそ現実性をもつものであり、しかも概念がみずからに現実性それ自身をあたえるという仕方で現実性をもつものであることをあきらかにする』

カント哲学では、理念は「神、永遠、魂の不死」の三つに関わるものである。経験はできないが、理性で捉えられるものである。

それ以外は悟性(論理的な認識能力)で捉えられる概念である。


たとえば、人権とか国家というのは概念である。

近代社会では、人権という概念は、現実性をもつ、人言がみずからに現実性を与えるという仕方で現実性をもつ。

たとえば某大手芸能事務所の社長による性被害も問題における人権を考えてみよう。

この大手事務所では、タレントの人権が現実性をもっていなかった。性被害は、見て見ぬ振りという仕方で人権侵害という現実性を与えられなかったのである。

人権という概念は、理念に裏打ちされていなければ、空虚な概念に過ぎない。

人間の認識能力で捉えられる人権という概念は、一応近代化している日本社会では、皆、共通認識としてもっている。人権が大事だというのは、頭ではわかっている。

しかし、人権が現実性をもっていなくて、世間では、人権という概念が、上っ面の建前に過ぎないという風潮があって、人権侵害を見て見ぬ振りすれば、概念として存在する人権は、嘘であり、錯覚と同じである。

人権という概念を形態化するには理念が必要なのである。

じゃあ、日本社会に理念はあるのか?

なければ、嘘っぱちの近代化である。

理念がない社会は、サル山のサルの群れと変わらない。

ボスザルが力で支配する集団である。

(おわり)




お志有難うございます。