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テラさん問題 その3 セカイ系はコックリさんと同じだ

テラさん問題 その3である。

テラさん問題 その1
テラさん問題 その2

学童社の『漫画少年』の投稿欄から漫画家志望の若者をリクルートし、良質な児童漫画の作家に育て上げようとしたテラさんであったが、学童社の倒産と『漫画少年』の廃刊により、その志は潰える。

テラさん問題の補助線として、「セカイ系」と呼ばれる物語について私の極私的定義を説明したい。

「セカイ系」とはウィキペディアによると

「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」

「セカイ系」ウィキペディアより

だそうである。

私は漫画アニメにさほど詳しくないのであるが、有名どころで言えば『新世紀エヴァンゲリオン』や『君の名は。』がセカイ系だろう。

このような作品群の特徴は、

登場人物のナラティブ(語り)で構成されている

ということである。


ナラティブとは?


ナラティブとは、個人的な体験を語ることである。

ナラティブは、ストーリーとは違う。

ナラティブの同義語に、ナレーションがあるが、ナレーションは、ストーリーを説明する補助として働く。例えば、大河ドラマの冒頭に、歴史的背景を説明するアナウンサーの語りが入るときがある。あれがナレーションだ。

ナレーションとは異なり、ナラティブは、登場人物自身の一人称の語りである。

セカイ系のアニメは、登場人物たちのナラティブによって、物語が展開していくのである。


口承文学というものがあるが、あれはナラティブで構成されている。

世界各国には口承文学としての民話があり、例えば、日本にも柳田国男の『遠野物語』がある。口頭で伝えられるナラティブ(語り)の文学である。

ナラティブの一番わかりやすい例は、おばあちゃんが、寝付けない子供に、まくらもとで語る昔話を想像していただければいい。

昔話というのは細部や、構成など、厳密ではない。おばあちゃんの手料理に似たようなもので、砂糖塩の分量は、適当である。おばあちゃんの主観で、適当にアレンジされた語りなのである。

話は変わるが、私は、自分の主宰している読書会で、アベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』を課題図書にしたので、この正月に、読んでみた。

学生時代から積ん読にしていた文庫本であり、ブックオフで買った値段は100円である。消費税がまだ3%で税込100円だった頃に買ったらしい。

『マノン・レスコー』は、まさしく「セカイ系」の萌芽というべき作品であった。

将来を嘱望される、ある純情な青年が浮気な美少女マノンと恋に落ちて、贅沢好きの彼女のために、生活費を稼ぐ必要に迫られ、詐欺などの犯罪を繰り返し、破滅するという話である。

全編、主人公の青年デグリューのナラティブ(語り)で構成されている。

(ただ、『マノン・レスコー』の結末は世界の崩壊ではない。)

マノンとの幸福を追求しながら、どんどん破滅に転落していく、主人公のナラティブは、悲壮をこえて滑稽であった。

なぜ滑稽なのかというと、個人的な体験を語れば、そこには誇張もウソも混じるであろう。聴いている方は、そんなバカな? と半信半疑になるのである。

ナラティブというのは、古典落語のような形式がない限り、主観的になりやすいので、誇張やウソが目立ち、内容の信憑性が、とぼしくなるのである。

深夜の通販番組で、テレビであまりみなくなった芸能人が一生懸命、フライパンなど説明して、売っているが、あれがなんで、白々しいかと言えば、ナラティブだからである。

通販番組特有の白々しさ、リアリティの欠如が、ナラティブでは起きやすいのである。

「セカイ系」とは?


「セカイ系」は、恋人同士の小さな関係が、世界の破滅と直結していると定義されている。

『君の名は』は、主人公の女子高生(三葉)が隕石衝突で村ごと吹っ飛んでいなくなっているという3年の現実に起こった出来事を、彼女と体が入れ替わった恋人役の男子高校生(瀧)が、パラレル(別の)ワールドで、救い出すという話である。

未来から来た人が、過去をもう一度やり直して、現実そのものを変えるというSFファンタジーであった。

あそこで重要なのは、三葉と瀧の小さなほのかな恋愛関係が、隕石の衝突という世界のメガデスを救ったことである。

未成年であり、社会参加もしていない、人生の入り口に立っているティーンエイジャーの勇気を持った行動が、隕石の災害から人類を救うのである。

私も、みてボロボロ涙を流したクチなので、偉そうなこと言えないが、あれは、純粋な若者が、必死に行動しているから感動するのであって、もし仮に、中年の男女が体が入れ替わって、おっぱいを自分でもんだりして、助け合っていたら、いろいろな雑念がよぎって、すこぶる滑稽なのである。

それはさておき、「セカイ系」の作品にたいする、よくある批判というのがある。

それは、こういう「セカイ系」の作品は、政治や経済、歴史、文化といった社会的領域が脱落しているので、抽象的である、という批判である

例えば、私が、『君の名は。』をみていて、一番疑問に思ったのは、三葉のオヤジの存在である。彼は、神社の宮司になるのをやめて、町長になっているのだが、彼が、避難警報を出すのが遅れたせいで、隕石で村人が死んだということになっている。

このオヤジの言い分もあるだろうに、と思ったが、それは作品内で語られることがなく、頑固で愚かなオヤジとして描かれているだけなのである。

ここに、私は、社会的領域の脱落をみた。

「セカイ系」は、社会を描いていないから、ウソくさいSFファンタジーになるんだ、とよく批判されるのである。

しかし、これは、セカイ系の批判として、正しくない。

私が思うには、「セカイ系」の問題は、世界が描かれているというよりも、「無世界」が強く現れていることだと思う。

このことを説明したい

ナラティブには、世界が存在しない


私は、最近、ハンナ・アーレントの『人間の条件』の第二章『公的領域と私的領域』を読んでいて、セカイ系とは、無世界のことを指しているのだと悟った。

どういうことかを以下に、これから説明したい。

ハンナ・アーレントのいう世界は、公的領域のことであり、それは、古代ギリシアの都市国家のアゴラや民会のような、家長が集まって、人間の組織化や言論活動をする場所である。

そこでは、人間は、様々な側面から吟味され批判され、さらには様々な遠近法をもつ視線にさらされるという。

ギリシア市民が、様々な側面から吟味され批判されるなかで、初期のデモクラシーは成立したのである。


現存在というハイデガーの哲学用語があるが、これは現実存在のことである。

我々は、現存在として存在するのであるが、真に存在感をもって他人の前に現れるのは「世界」の中においてである。

その「世界」とは、様々な他者の視線が交錯する場所である。

その他者の交錯した視線の全量が、リアリティ(現実感)を生み出すのである。

しかし、セカイ系の主人公は、ごく主観的なナラティブの中で、自己の個人的体験を説明するのだが、それは、つまるところ自分の視点でしかない。

ナラティブは、自分の視点しかないのである。何人かの登場人物が代わる代わるなナラティブを担当しても、その他者の交錯した視線の全量は、極めて少ない。

我々が現在政治体制として採用しているデモクラシーをみれば、選挙において有権者が候補者を吟味する視線の全量は、かなりのものがある。

政治家には、それなりのオーラがあり、リアリティがあるというのは、彼らが公的な存在(パブリックなペルソナ)であるということだ。

しかし、セカイ系の主人公たちは、他人の視線を欠いており、自分の思い込みの中の、饒舌な語りで、自分の感情をアピールしているだけである。

ナラティブの内容を批判され吟味されることもない。

そのナラティブは、目の前に存在しているように現実感をもっているかもしれないが、それは錯覚である。やはり、リアリティ(現実感)の担保となる、様々な視線を欠いている。

だから、彼らには、結局、リアリティがない。

それはなぜかといえば、彼らの存在には、視線が交錯する場としての世界がないからである。

世界にはいろいろな視線があり、終始、キツいツッコミにさらされる。

それが、世界に存在する、現存在の現存在たる所以であるが、「セカイ系」の主人公は、同じ作品の登場人物にさえ、吟味も批判もされない。

なぜなら、世界を欠いているからである。

主観的なナラティブの中に、リアリティのないまま浮遊しているのである。

私は『新世紀エヴァンゲリオン』のアニメシリーズも映画も、一応全部みたが、何が面白いか、よくわからなかった。リアリティーも無論感じない。

そのかわり思ったのは、それぞれの登場人物が、自分たちの思い込みの中で、てめえがってなことを語っているな、ということだけだった。

あの作品に登場する人物たちは、強い自己欺瞞の中に生きていて、性格というほどのものを持っていない。

なぜなら、性格を持っていれば、例えば、碇シンジ君はエヴァンゲリオンに乗るのをやめて、勇気をもって、自分の人生を踏み出すだろう。

他者の視線にさらされ、吟味される生き方を選ぶであろう。

碇シンジ君は、勇気という性格を欠いているから、ウダウダ、NERVとかいう権威主義的疑似家族集団の周辺をさまよい、父親に認められたくて、エヴァに乗るだの乗らないだのという、小さな反抗を繰り返す。

また、死んだ母親の面影を、母親のクローンである綾波レイにみて、モヤモヤしているのだが、シンジは、家族の共依存体質を断ち切ることができず、完結編まで、悶々鬱々としながら、「逃げちゃダメだ」という、自問自答のナラティブを繰り返しているのである。

古代ギリシアの都市国家は、奴隷制であった。奴隷は性格を持っていないと思われていた。奴隷は、奴隷状態に甘んじており、主人に反抗する勇気を欠いている。彼らには、人格も性格もない。無論、デモクラシー支える市民としての批判や吟味に耐えられないので、奴隷には、政治的参加の資格はない。

奴隷は、影のようなものだと思われていた。

影ということは、いろいろな側面から吟味されることもないし、様々な人間の視線の遠近法にさらされることもないのである。

碇シンジも、影である。

影のような存在だからこそ、影のような現存在に甘んじて、苦しんでいる視聴者の心に刺さったのかもしれない。

そういうことに苦しんでいない視聴者には、いっこうに刺さらないのである。いつまたっても、煮え切らない主人公だなあ、という感想しかない。


個人的な体験を他者の視線を欠いたまま語る登場人物たちは、世界を欠いた存在である。

存在の影法師である。

多くのティーンエイジャーは、世界をもっていない。

大人になって、就職して結婚して、社会参加すれば、世界に存在するのかもしれないが、漫画アニメに出てくる登場人物が、子どもであるのは、子どもは、家庭と学校という、私的領域に閉じ込められており、無世界性の中に生きているからに他ならない。

これだと無世界性について、まだ、わかりづらいので、もう一つ例を挙げる。

ハンナ・アーレントは降霊術を例に、無世界性を説いていた。

コックリさんという遊びがある。紙とペンとコインを使って、きつねの動物霊みたいなのを召喚して、複数人で、占いをする遊びである。

アーレント曰く、あれは、コックリさんがいるという思い込みで、参加者がつながっている遊びであり、コックリさんが何も応答しなくなると、参加している人たちが、全く無関係であるという、無世界性に投げ出されるいうのである。

これは、なるほどと思う。

コックリさんの参加者にとっては、コックリさんが答えないというのが、これが結構辛いのである。

なぜなら、彼らは、コックリさんの存在を前提としてしか、繋がっていない、批判も吟味もない危うい、その場限りの集合体だからである。

コックリさんで、狐に憑かれておかしくなる子供という都市伝説がよく語られるが、あれは、コックリさん参加者の集合体を、解散させないための無意識の救済行為なのである。

「セカイ系」しぐさである。死にかけている女子高生を、男の子が勇気を持って救い出すというナラティブは、終わりなきコックリさんを、無意識のまま演じるということなのだ。

それは、小さな関係が、世界の破滅と直結しているというよりは、無世界性を隠蔽するために、狂気を装う、佯狂(ようきょう)のしぐさである。

つまりは、エヴァンゲリオンも、コックリさんである。

あの作品の登場人物たちは、参加しなければ、いいのに、あえて参加して、綾波レイというコックリさんを動かしてしまっているのである。

「セカイ系」というのは、コックリさんの実況中継みたいなものである。

2000年代以降に、「セカイ系」は、高度に洗練され商品化されたナラティブとして消費されるようになったのである。

コックリさんが応答しなくなると、参加者の関係性が途絶えるので、それを「世界の終わり」や「世界の危機」と呼んでいるのだろう。

しかし、厳密に言えば、それは、無世界性である。

コックリさんという遊戯をツッコむ、雑多な視点を欠いているということだ。

そして、参加しているのは、コックリさんに勝るとも劣らぬ、性格を欠いた影のような参加者なのである。

スピリチュアルとしての降霊術は大人もやるであろう。

カルト宗教は、降霊術を秘密裏に定期開催しているかもしれない。

カルト宗教の活動は、たいていの場合、大人が世間に隠れてやるコックリさんだし、いい大人がやるからには、世間の吟味を受けなければいけないのだが、それに耐えられないから、徹底的に秘密にしてやるのである。

批判されると、コックリさんが成り立たないからである。

だからカルトなのである。


漫画アニメは、キャラが重要だというが、本来は、キャラに性格がなく、世界もないから、成り立っている形式である。

キャラへの愛というのは、親しい友達とのおしゃべりであるにあるような親密さへの共依存である。

精神的に自立しない幼児が、ぬいぐるみを四六時中連れ回し、それを友達や家族のように扱い、親しげに話しかけるのに似ている。

コックリさんの参加者が、コックリさんに問いかけ、答えてもらうのも、ナラティブによって仮装された一方的な親密への偏愛である。

どれもこれもナラティブによって生まれた、自己欺瞞である。

それは、世界に性格を持って存在することに耐えられない、逃避なのである。

「セカイ系」のカラクリはこんなところだ。

視聴者は、「セカイ系」のナラティブに惑溺しながら、心のうちで、キャラ=コックリさんと会話して、友達になっているような気になっているのである。

ハンナ・アーレントをダシにして、すごいざっくりと暴論を述べたが、テラさんが、描きたかった児童漫画は、おそらく無世界性=コックリさんではなかったはずである。

テラさんは野球マンガを描いていたらしいので、野球少年がお互いに視線にさらされ、遠近法の中で、野球を通じて、世界の中に現れるような作品を描きたかったのだろう。

しかし、高度経済成長期の1960年代の漫画雑誌は、そういう作品を求めていなかった。

漫画雑誌自体が、子供たちが、影のように集う、コックリさんになってしまったのである。

キャラ重視のマンガ・アニメの隆盛によって、あるいは、劇画ブームという、必然性のない暴力描写や性描写(それは、乱暴な返答をして刺激の強いコックリさんのようなものだろう)の隆盛によって、ますます、子どもを無世界性に押し込めることに嫌気がさしたのではないか。

だとすると、手塚治虫の漫画はなんだったのだろうということになる。

あれも、コックリさんなのではないか。火の鳥だってコックリさんだ。

手塚先生もいつしか、コックリさんの権威みたいになっていったのである。

1968年以降の全共闘運動の挫折の代替物としてがサブカル勃興したが、それらは、政治に挫折して世界を失ったものたちの無世界性を、暗示しているのである。

だいたいにおいて、コックリさんに似たようなナラティブにさせられた表現なのである。

日本の無世界性

日本人は、日本人であるという思い込みが強い。

日本の保守言論人が日本の歴史を記紀神話に接続して、日本の神々の正当性でもって、日本人の日本人たる存在証明をしようとしている。

それは内輪向けの話としては、耳に心地よいナラティブである。

しかし、いっこうに、世界に存在感をアピールできることができていない。

唯一の頼みだった経済力を失えば、我々日本人は、自分たちのナラティブに酔うだけで、リアリティを欠いたまま、国際政治の中で存在感を失ったまま、浮遊している。

記紀神話もコックリさんである。国際政治の現実から後退し、リアリティから目を背けるのは、日本人が自分たちのやっているコックリさんが終わった後の無世界性を、見たくないからだろう。

だいたい加速主義だとかいってる社会学者とか、現代カタストロフだとかいってるマルクス主義系経済学者も「セカイ系」である。

日本の現代のインテリも、漫画アニメに出てくる、ティーンエイジャーに似ており、自分のナラティブに酔っている。

無世界性に、無批判である島国根性の無性格である。それを、失われた30年というのだが、失われた30年が終わると、彼らのコックリさんも終わってしまうので、ネットやラジオで、空虚なことを延々しゃべっている。

日本のインテリも「セカイ系」なのである。

怒りの矛先が逸脱しました。

失礼いたしましたクルリンパ。


クールジャパンという無世界性が、世界でウケるのは、現代人がデモクラシーの機能不全の中で、世界を欠いて、影のような存在に成り下がっているからなのかもしれない。

(つづく)
















お志有難うございます。