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太宰治の短編『鷗』

太宰治の短編『鷗』を朗読した。自分の、主宰している読書会の課題図書は、なるべく、朗読したい。するべきだと思っている。世の中には、文字を追うのが辛い人だっている。そういう人に、内容を知ってもらうには、朗読しかない。みんな、うすうすわかったでしょ。これから書くコラムは、太宰の、文体模倣。死のう、バンザイ、なんて、キザな、ことば。イヤな、ことば。

影響を受けやすい。影響を受けやすい人生でした。私には、主体性なんて、何にもないもの。寸借詐欺。女子高生が、財布なくしたって嘘ついて、駅前で、大人から電車賃を借りていて、見つかって補導された事件があったけ。ああいうの寸借詐欺っていうんだ。バレなければ、延々と寸借詐欺。きっと気の毒な女子高生だから、寸借詐欺だってわかっていても、毎回小銭を貸していた、善男善女の市民もいるかもしれない。私の思想も寸借詐欺。みんな分かっている善男善女に向かっての、甘ったれた、寸借詐欺。

カントやニーチェやキルケゴールの寸借詐欺で、何かしゃべっている。よく考えれば、自分の思想などないのです。そんなもの、一生かかっても持てないもの。ドイツ製の腹話術人形。唖の腹話術人形。

太宰の甘ったれた告白調の文章は、真似していると心地いい。『鷗』という小説も、何も語っていない。唖の鷗、なんじゃそりゃ。何も語っていないけど、悲しみは溢れている。「それじゃ、あなたは梶井基次郎などが好きでしょうね」という一文が『鷗』のなかにあった。どきっとした。この前梶井基次郎の『冬の蠅』で読書会したっけ。梶井基次郎だったら、太宰みたいな甘ったれた自己正当化をずらずら書かない。


書いていたら、飽きてきたからもうやめる。おやすみなさい。嘘でした。いま、起きました。起きたら夕方。おはようございます。髪の毛が伸びてきて、坂本龍馬みたいな頭になってきました。志士にまかせよ「待つ」


(おわり)

お志有難うございます。