谷崎潤一郎『母を恋うる記』読書会 (2023.3.3)
2023.3.3に行った谷崎潤一郎『母を恋うる記』読書会の模様です。
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青空文庫 谷崎潤一郎 『母を恋うる記』
朗読しました。
https://youtu.be/sgIozb6nm9Y
門付としての文芸
私は、谷崎潤一郎という作家が、なぜ作家になったのか、また、何を書きたかったのか、よくわからないところがあった。ただ、有名作家が自己韜晦せずに表現することなどないのだから、読者に簡単にわかられてはたまらないだろう。
しかし、何度考えても谷崎の作品のマゾヒズム、女性の足へのフェティシズム、母親への憧れ、といったモチーフが、谷崎にとって何を意味していたか、私には、よくわからないところがある。私が、それらのモチーフにあまり興味がないせいかもしれないが、谷崎先生も、それらのモチーフに本気とかいてマジの関心があったのだろうか? 私には疑わしいのである。
この『母を恋うる記』を読了して、初期短編を網羅した新潮文庫版の『刺青・秘密』を読破した。
谷崎の作家生活の秘密を解く鍵として、私はやはり『幇間』という作品が大切だと思う。
幇間は、太鼓持ちとも呼ばれるが、客と芸者の間を取り持って、自分を卑下しながら客のご機嫌をとるというサービス業である。
『母を恋うる記』では、若き頃の母親が、新内語りという、三味線を一本で流して、生計を立てている流しの芸人に変身して、夢に現れている。このような流しの芸人は、家の門口で、頼まれてもいないのに新内語りを披露して、お金をもらうということから、「門付(かどづけ)」と呼ばれている。美空ひばりも獅子舞を舞う児童の門付である『角兵衛獅子』生き様を『越後獅子の歌』という曲で歌っている。子供の頃から、芸能人として戦後を生き抜いた美空ひばりが歌うと、『越後獅子の歌』には独特の迫力がこもる。美空ひばりのみならず、昭和の芸能人は、自分たちが政治権力に保護された現代の角兵衛獅子であるという謙虚な自意識があり、お客である庶民に配慮して、なるたけ政治権力と距離をおいていた気がする。しかし、今の芸能人は平気で総理大臣と会食して、お花見に呼ばれて、庶民に政治家との交流をアピールする。自分を権力者の側だと勘違いしている。実際は政治家に利用されているだけなのに痛々しい。
谷崎は同級生の中でも抜群の秀才だった。そんな彼が、実家の没落により、周囲のボンボン息子の友達の世界から弾かれて、疎外感や挫折を感じながら、文芸の世界で生きていくことを覚悟した経緯は『異端者の悲しみ』に詳しく描かれている。『母を恋うる記』も実家が没落して、迷子になり、海辺の松林の中を母親に似た女性を追いかけている孤独で寂しい心境が詳しく描かれている。
母親への憧れというのは、谷崎作品の代表的なモチーフひとつだろう。死んだ母までこうやって新内語りのような門付にして自分の創作に登場させるには、谷崎の相当の覚悟が垣間見える気がする。それは、文芸という「芸能」を売るものとしてのプロの幇間魂である。作家とはいっても、大衆社会の勃興する大正期には、現代の芸能人、つまり門付とさして変わらない。売文業も、芸能を売り歩き、定住する場所を持たない卑賎な立場にどっこいどっこいである。売文業の卑しさを、その徹底した自己批判の意識をもって苦く噛み締めながらも、最高の芸能で、世間に己の存在を証明するのだという古典芸能の名人のような谷崎の気迫が、流麗な文章の奥底に漲るのを感じた。
米も炊けないお嬢さん育ちだった母が門付に身をやつしているという悲しい描写の奥底にあるのは、谷崎自身の徹底した門付的自己認識ではないか。だから谷崎は、文学者は社会に訴えなきゃいけないなんて、頭でっかち現代作家の夜郎自大な誤解とは、徹底して無縁なのである。彼は、自分の芸能としての文才だけを頼んでいる。
今でこそ大谷崎と呼ばれ、いわゆる社会問題にも政治問題にも無関心を貫いた文豪としての矜持が再評価されてはいるが、徹底した門付的自意識で創作をしていたところが、谷崎の一番偉い部分だ、と私は思う。なぜ作家になったか、何を書こうとしていたのか、そんなことは二の次で、谷崎の根底には、実家の没落後は、徹底したサービス精神の売文芸能でしか、世間を生き抜けず、己の存在証明をできないというシビアな計算があったのような気がする。
現代の作家にはそれがないから、一作評価され、そこそこ有名になったら、タレントみたいになって、政治家に転身したりして、天狗になって、みっともない醜態を晒している。
亡き母の夢を見て涙したようなセンチメンタルな34歳オレを描いているだけかとおもいきや、本作は、文芸を売る門付は、いかにあるべきかという倫理をも描いているのを感じた。
(おわり)
読書会の模様です。
お志有難うございます。