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太宰治『姥捨』読書会 (2022.4.15)

2022.4.15に行った太宰治『姥捨』読書会 のもようです。

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青空文庫 太宰治 『姥捨』

朗読しました。

私も書きました。

『優しい人間、心の弱い人間のウソ』

 
生きるのを意欲しなくなることはあっても、生きようとする意志は否定できない、ということをショウペンハウエルが『自殺について』で述べていた。(『自殺について』岩波文庫P.84)

 

妻の不倫を目撃し、借金を重ね、生活に困難を感じて、この主人公は夫婦で心中しようと思い立つ。妻の不倫を目撃してしまったショックというのは『東京百景』や『人間失格』にも描かれている。この『姥捨』には、不倫した妻と心中しようとして、果たせず、別れるまでの経緯が書かれている。

狂言自殺という言葉がある。

自分が悪者にならない程度に別れるきっかけが欲しかったので、心中を図ったというが、この『姥捨』の主人公の企みなのではないかと思った。これは、世間への言い訳の果ての心中未遂である。

 

この主人公は、倫理的に妻を非難して、一方的に別れるほど立派な人格者ではないことを自覚している。

だから、妻を責めずに、一緒に死ぬことを提案する。この思考回路は、わからんでもない。

 

この主人公は、優しい人間でありたいのだろう。そして、本当は自分は、優しくないというのも自覚していると思う。優しそうだけど、ほんとは優しい人間ではないと、世間に見抜かれるのを恐れているのだろう。自分を優しい人間にみせたいというのは、エゴイズムである。虚栄心やプライドの一種である。

優しい人間にみられたいムーブと、それにまつわる自己嫌悪が全編に漂っている。

 

この主人公には、生活の困難に立ち向かう強さが必要だ。そのことも、本人は、はっきり自覚しているのだろう。しかし、生活の困難に耐えることができないほど、弱いのである。弱いというのは、生きることに困難を感じるまで追い詰められると、生きようとする意欲がなくなるということだ。

そして、心中に失敗するというは、ショウペンハウエルの言う通り、人間には、生きようとする意志をそのものは、否定できないということだ。

世間を渡っていくには、生活に押しつぶされても、耐えていかなければいけず、そのために、自分のエゴで世間を渡っていくような、浅ましさが、必要であり、それはケダモノじみた浅ましさである。

そんな当たり前のこと、誰かに教わるまでもないのだろうが、それができない優しい人間、心の弱い人間は、この作品にシンパシーを感じるだろう。そのためにウソをつく。優しい人間の、弱さからでるウソを。

私も、もうとっくに太宰の死んだ年を越えている。太宰がもがいていたことの一端が、身につまされるように理解できるようになったのは、恥ずかしながら、最近である。生きるのは大変だ。ウソでもつかなけりゃ生きていかれない。

 

『ワーニャ伯父さん』のソーニャではないが、それでも、人間は、生きていかなければならない。みっともないエゴだろうがなんだろうが、とにかく世間に自分を押し立てて、渡っていかなければならない。それが死ぬまで続くのが、人間の宿命であり、ときに生活に押しつぶされ、生きるようとすることが意欲できなくなり、生活を投げ出しても、その宿命そのものは、人間であるてめえの本質から離れないのである。 

優しい人間は、その宿命につきまとう、ケダモノじみた浅ましさをうけいれられないし、弱い人間は、その浅ましさからくる自己嫌悪を引き受けて、生活の困難に立ち向かうのを避けようとする。でも、生きようとする意志は否定できない。

死にたいなんてウソである。生きるのを意欲しなくなっただけのことだ。  

  (おわり)

読書会のもようです。



お志有難うございます。