志賀直哉『痴情』読書会 (2022.2.11)
2022.2.11に行った志賀直哉『痴情』読書会 の模様です。
私も書きました。
観照生活のなかの「本統」
ハンナ・アーレントの『人間の条件』において古代ギリシアのポリス(都市国家)の観照生活というのが紹介されている。観照生活(英語で言うところの contemplated life)とは、精神の活動である。内省のある生活である。
ギリシアのポリスの市民は、私的領域(私生活)と公的領域(政治的活動)を厳格に分けていた。
私生活というのは、生命を維持して、種を保存するための動物的営みである。喰ったり、寝たり、掃除洗濯、はたまた家計のやりくりなど、家族との生活である。不倫もまた私生活である。
これに対して、公的領域の活動がある。それは私生活から自由になること、権力の強制してくるからあらゆる事柄から自由になり、観照にふけることである。たとえば、世間の価値観から自由になって、概念としての「徳」「愛」「友情」「勇気」「崇高さ」などについて熟考して、精神活動にヨッテ真理を追求することは観照生活だ。それを公的領域において、実行に移すことこそが、ギリシア人が考えた政治的活動なのである。その活動は、私生活に対立する。
労働に追われたり、家庭の雑事に追われたりしていれば、観照生活のための時間やエネルギーはもてない。
古代ギリシアのポリスでは、私生活に埋没することは、真理から遠ざかることであり、人間の精神だけに可能な高貴な営みから遠ざかることであった。
志賀先生は、私生活の上の不倫問題を題材として作品を、発表しながら、自身の観照生活の一端を、世間に問うているのである。しかし、皮肉なことに、志賀先生の高尚な営みは、世間では、下世話な好奇心によってしか消費されない
愛人ができても、なお妻を変わらず愛しているが、妻は不倫を絶対に許さない。妻は、愛人と金で始末をつけて、別れてくれと執拗に迫り、なおかつ、もっともなことだが、夫の不倫相手を人格的に軽蔑している。日頃決して見せない、妻の嫉妬深い感情がむき出しになる。剥き出しの敵意に、なんとも言えない不快感を味わいながら、そういう軽蔑はよくない、と妻にむかって説得することもできないことで、夫婦の間に横たわる溝を悟ることの、手前勝手な、哀しみが描かれている。
このまま不倫を続ければ、妻は精神が崩壊してしまう。でも、自分は不倫をやめたくない。自分の不倫は、放蕩ではなく、全然タイプではない女性に何故か強く惹かれるというのは、人生における新たな局面を開くような、チャンスだったのだ。
「本統」とは、真理を追求する芸術家の精神の核心であり、このチャンスは、さらに観照生活を深める絶好の機会である。その意味で、この不倫は、「本統」のものである。
この「本統」というのは、私生活をはるかに超えた観照生活に関わる。人間の高尚な精神が活動する場である公的領域では、この不倫は、熟考に値するテーマなのだろうが、そんな公的領域は古代ギリシアのポリスならいざしらず、島国日本の世間には存在しないから、誰からも理解されない。殊に、妻は、絶対に理解しないし、理解しようともしないであろう。
不倫体験を描いた私小説から、「人間を愛するとは人間にとっていったい何なのか?」という哲学的で普遍的な問いに飛翔しようとした志賀先生は、結局、妻に抵抗されて、その手前で、やめているのである。不倫相手と泣く泣く別れ、妻との私生活を優先するにあたって、志賀直哉の公的領域がとざされたのである。
不倫を肯定する「本統」の追求によって、公的領域の政治活動にのめり込めば、その辿り着く先は、世間に対する叛逆であり、それは、ほぼ革命である。
(おわり)
読書会の模様です。
お志有難うございます。