見出し画像

坂口安吾『戦争と一人の女』読書会 (2022.7.15)

2022.7.15に行った坂口安吾『戦争と一人の女』読書会のもようです。

メルマガ読者さんの感想文はこちら

青空文庫 坂口安吾 『戦争と一人の女』 改作版『続戦争と一人の女』です。

朗読しました。


ふるさとは語ることなし


先日、新潟に旅行に行った。坂口安吾の「ふるさとは語ることなし」の石碑があるというので、新潟の護国神社の周辺をウロウロしたが、見つけられなかった。あとで調べると、護国神社の敷地内にあったそうなのであるが、暑い中を歩いていたら、旅の疲れがどっとあふれてきて、面倒くさくなり、探すのを諦めてしまった。

奥野健男の評伝『坂口安吾』をざっと読んだ。安吾は、代々の旧家であった生家を憎んでいたそうである。この小説も、家への複雑な思いが描かれている。

語り手のこの女が、空襲で焼けそうになった家を、同棲相手の野村と一緒に消火するシーンが描かれている。その一方で、語り手の女は、なんとなく空襲で東京の全てが焼け野原になることを願っている。

家を恨みながらも、家に執着し、愛した男が戦争で死ぬのを夢想し、死ぬまで彼に献身して、可憐な女になろうとしている。愛憎半ばの家への想いである。アンビバレンスである。ここアンビバレンスは、安吾の残してきたふるさとの家に対するアンビバレンスと重なるのだろう。

日本の国家が『国家家制度』であるとすれば、戦争で負けることは、家が焼け落ちるのに似ている。
国家も世間も家の延長であり、家が日本人の空間意識と時間意識の奥底にある。

国家、世間の基礎単位である家制度の中で人間になったものが、家を否定するのは、自己を否定することである。

そして、自己否定は、結局は、自己肯定の裏返しであり、家への反抗は、結局、家制度の権威主義に回収される。反体制も、体制の一部に回収されるのが権威主義である。

安吾が、この作品で描きたかったのは、権威主義に回収されるような、家への反抗ではなく、家とその延長である世間や国家を、一瞬に無価値にしてしまうような思想である。それが、彼のいう「ファルス」である

安吾には『FARCE に就て』という有名なエッセイがある。ファルスとは何か。道化のことである。

(引用はじめ)

ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しやうとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャ/\であれ、何から何まで肯定しやうとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関する限りの全てを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。

(引用おわり)

家や、その延長である世間や国家を、一瞬、無価値にしてしまうような、ナンセンスな瞬間を表現して、その笑いのエネルギーによって人間の現実の生を肯定する事だ。

空襲はファルスであった。巨大な破壊は、ファルスである。人間を無意味なナンセンスの奈落に突き落とす。

そのファルスのなかにあらわれる意味を失ったナンセンスな世界での絶対の孤独こそが、ふるさとの生家の肯定である。人間の戻るべき場所である。
そのことは、安吾の『文学のふるさと』というエッセイにも書かれている。

(引用はじめ)

それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。

我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。


 私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。

(引用おわり)

巨大な破壊の果てに表れたナンセンスの中においてしか、肯定できないふるさと。それについてに語ることはない。
なぜなら、ふるさとは、ナンセンスのなかにあるのだから。そのナンセンスが、国家や世間や家への共依存をたちきり、人間の絶対的に孤独な生を肯定するのきっかけとなるである。

ふるさと日本が破壊され、敗戦を迎えたことで、多くの人が無気力にさいなまれていた。

絶対の孤独のなかで、いかにして人間の生を肯定するのか、という形而上学的問題に、安吾は、『戦争と一人の女』を通して、取り組んだようである。

しかし、そう考えれば、安吾の『ふるさとは語ることなし』というのは『国家は語ることなし』という意味である。
それが護国神社の境内に建てられているいるという痛烈な皮肉に、一体誰が気づいているのか?

(おわり)

読書会のもようです。



お志有難うございます。