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森鷗外『杯(さかずき)』読書会(2023.9.8)

2023.9.8に行った森鷗外『杯(さかずき)』読書会の模様dす。

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朗読しました。

青空文庫 森鷗外『杯』

私も書きました。

なろう系ロリィタの濫觴 森鷗外が金髪碧眼の美少女をセルフ受肉した件


「自然」と銘打った銀杯は、当時隆盛だった日本の自然主義的文学潮流を指していると言われている。

七名の少女が持っている銀杯に対抗して、第八の少女がとりだした溶巌色の杯。これは、森鷗外の文学観を表しているらしい。

自然主義の作品といえば、モーパッサンやゾラの作品が思い浮かぶ。当読書会でもゾラの『居酒屋』『ナナ』モーパッサンの『脂肪の塊』を扱ったことがある。それら自然主義の作品群は、その登場人物に、社会科学的な視点からみた階級社会へのあてつけのような役割が与えられている。

例えば、ゾラの作品では、田舎から上京してきた庶民の女の視点から、パリのブルジョワや貴族の俗物主義を糾弾している節がある。モーパッサンの『脂肪の塊』の登場人物には、第二帝政の階級構造を暗示する設定が与えられている。

そんな、社会科学的なおフランスの自然主義だが、日本に入ってくると、田山花袋の『蒲団』にあるように、己の性欲のような抑えきれない俗情をそのままさらけ出すというような「みょうちくりん」な暴露系文学になった。

森鷗外は、わかりやすく例えれば、オルタナが輸入されても、結局、クソダサ青春パンクに変わってしまうような日本の文化的土壌を憂いていた。ゾラが、内弟子の蒲団を嗅いで咽び泣くわけはない。

森鷗外は高踏派ということになっており、豊かな教養(それはギリシア、ラテン語に始まり、色々な外国語の単語を本文に引用していることからもわかる)に支えられた厭世主義的な傾向の作風である。そのことは、今まで、森鷗外の作品で読書会をやってきて、なんとなくわかる。

この『杯』は自分の厭世的な個人主義を貫き、日本独自の文学的潮流を素手で切り開くのだ、という気概の表明にも受けとれる。

ただ、普仏戦争に反対し、ドレフュス事件ではユダヤ人差別を告発したゾラと違い、森鷗外は、終生、官僚としての自分の立場をわきまえ、体制側の人間であることに逡巡を覚えた形跡はあまりない。

強いていえば、墓に「森林太郎ノ墓」とのみ刻んだという潔癖さであろうか。墓誌銘に刻んだのは官僚でも文学者でもない、素の自分自身だった。

しかし、本作では自らを金髪碧眼の美少女に託しているあたり、森鷗外も、わりかしバ美肉おじさん(※1)的傾向があったようだ。

ゆえに本作品は、金髪碧眼ドイツ女と「おかんこ」したから俺的には優勝という『ヰタ・セクスアリス』より変態度が高い。

なんせ、キャリア官僚森鷗外が金髪碧眼の美少女に異世界転生したのだから。


日本の文学的矛盾を、金髪碧眼のおっきなリボンつけた美少女になるという飛躍で乗り越える、という彼のファンタジックな想像力は、それはそれで現代の日本人の中年おじさんにも通じると思った次第である。

どう考えても、『杯』は、なろう系ロリィタ小説の濫觴である。

しかし、フランス語をしゃべるような教養あふれかえる「バ美肉おじさん」は、かなり厄介な地雷物件である。

私も森鷗外のバチャ豚(※2)となって、スパチャを投げていたかもしれない。めるしーめるしー。


(おわり)

 

※1 バ美肉(バびにく)とは、バーチャル美少女受肉(バーチャルびしょうじょじゅにく)またはバーチャル美少女セルフ受肉(バーチャルびしょうじょセルフじゅにく)の略語。美少女のアバターを纏うこと。成年男性が受肉すれば「バ美肉おじさん」と呼ばれる。

 ※2 バチャ豚 バーチャルYouTuberのファンの事を揶揄する蔑称 バ美肉おじさんのバチャ豚は、演者の存在が表沙汰になってもスキャンダルにならない、さらに普通のバーチャルYouTuberと違い演者が男性なので、バチャ豚との異性関係のトラブルがほぼ起こり得ないことも強みの一つである。実態は、おじさん同士の地獄のような毛づくろいである。

読書会の模様です。


お志有難うございます。