見出し画像

読書日記(2023.9.22) あなたを先生と呼ぶ事が出来そうです

太宰治『風の便り』

あなた、とお呼びしていいのか、先生、とお呼びすべきか、私は、たいへん迷って居ります。私は、もし失礼でなかったら、あなた、とお呼びしたいのです。先生、とお呼びすると、なんだか、「それっきり」になるような気がしてなりません。「それっきり」という感じは、あなたに遠ざけられ捨てられるという不安ではなく、私のほうで興覚(きょうざ)めて、あなたから遠のいてしまいそうな感じなのです。何だか、いやに、はっきりきまってしまいそうな、奇妙な淋しさが感ぜられます。私でさえも、時には人から先生と呼ばれる事がありますけれど、少しもこだわらず、無邪気に先生と呼ばれた時には、素直に微笑して、はい、と返事も出来ますが、向うの人が、ほんのちょっとでも計算して、意志を用いて、先生と呼びかけた場合には、すぐに感じて、その人から遠く突き離されたような、やり切れない気が致します。「先生と言われる程の」という諺(ことわざ)は、なんという、いやな言葉でしょう。この諺ひとつの為に、日本のひとは、正当な尊敬の表現を失いました。私はあなたを、少しの駈引(かけひ)きも無く、厳粛に根強く、尊敬しているつもりでありますけれども、それでも、先生、とお呼びする事に就(つ)いては、たいへんこだわりを感じます。他意はございません。ただ、気持を、いつもあなたの近くに置きたいからです。

太宰治『風の便り』

昨日『風の便り』で読書会をしたのだが、この部分に触れるのを忘れてしまった。

「先生と言われるほどの馬鹿でなし」という言葉がないが、相手との直接の関係も築いていないうちに相手を「先生」呼ばわりするのは、何かしら「計算」があってのことだろうと思う。


私のそんな半狂乱の手紙にも、いちいち長い御返事を下さった先生の愛情と誠実を思うと、目が熱くなります。だんだん先生とお呼びしても、自分の気持に不自然を感じなくなりました。もう私の気持が、浪の引くように、あなたから遠くはなれてしまっているのかも知れません。旅行から帰って、少しずつ仕事をすすめているうちに、私はあなたに対して二十年間持ちつづけて来た熱狂的な不快な程のあこがれが綺麗さっぱりと洗われてしまっているのに気が附きました。胸の中が、空(から)のガラス瓶のように涼しいのです。あなたの作品を、もちろん昔と変らず、貴いものと思って居ります。けれども、その貴さは、はるか遠くで幽(かす)かに、この世のものでないように美しく輝いている星のようです。私から離れてしまいました。私は、これから、こだわらずに、あなたを先生と呼ぶ事が出来そうです。

同上


宿で直接対決して、関係性を築いてから「だんだん先生とお呼びしても、自分の気持に不自然を感じなくなりました」と木戸一郎はいう。

「私は、これから、こだわらずに、あなたを先生と呼ぶ事が出来そうです。」

これは木戸一郎の白旗なのか?


はっきり言うと、自分は、あの温泉宿で君と遊んで、たいへんつまらなかった。君はまだ、作家を鼻にかけている。そうして、井原と木戸を、いつでも秤(はかり)にかけて較(くら)べてみていました。つまらない。

同上

先生であるとかないとか、自分と相手を秤にかけていてつまらない、と、木戸一郎が、はっきりとどめを刺されていて、厳しいなと思った。

(おわり)

お志有難うございます。