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好きだから一緒に暮らす。私と手造り庭園と小さな幸せの空間のこと

私には、未来に残したい風景がふたつある。どちらも経験上私をこのうえなく幸せにしてくれるものだ。

一つ目は、一軒家の手造り庭園。私が生まれ育った家は亡くなった曾祖父がつくったもので、玄関から戸までのところに綺麗な庭があった。

広さは都会の少し狭いワンルームくらい。細い川の流れるうえに小さな橋がかかっていて、そこを超えると様々な植物に会える草道が半円状につづいている。この庭もまた、曾祖父の手造りだ。

飼っていた犬がその小さな庭を走り回るから、草がうまい具合に退いて道となっている。幼い私はデパートで母に買ってもらったフリフリのワンピースを着て、不思議の国のアリスになりきるのが好きだった。

車がほとんど通らない道でもひとりで外に出ることはよしとされていなかったので、家の敷地内で自然と触れ合って楽しめるこの場所は、きらきらして見えた。

私が歌をうたう間、祖母が近くで庭の手入れをし、暑い日には水をまいてくれる。祖母のまいた水が庭のすぐそばにある細い川を流れていくのを見つめる、天気のいい午後が、今でも恋しくなる。

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二つ目は、しょうもないことで笑える大切な人との空間。風景とは違うかもしれないが、私は家族や友人の笑顔を間近でみるととても幸せな気分になれるのだ。

オチもないし大して有益でもない話でも、ツボにはまった瞬間が訪れるとものすごい笑顔が見れる。最近は、バイト先のお客さんや推してるアイドルの笑顔からも元気をもらっている。

ちがった観点からみれば、私は決して友達が多いわけではなく、慣れない複数人との会話では気を遣いすぎて次の日にぐったりしてしまうようなタイプともいえる。

でも、今これを書きながら、私はものすごい幸せ者なのかもしれないと思ったりしている。

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よく考えれば、「小さな幸せ」が私に欠かせないと感じだしたのは祖母の死がきっかけだった。

当たり前で退屈な日々がずっとつづく、そんな気がしていた。ついこの前講演会で、「当たり前は当たり前じゃない」と聴いたばかりだったのに。

ドラマの世界でしか縁がなかった「人の死」に触れ、冷たいと思った。重苦しさをなくそうと必死になってもできないことの方が多かった。

祖母がよく手入れしていた、私が大好きだった庭園は、10年経った今廃墟のように朽ち果て、今度帰ってくる親戚の持ち物になろうとしている。

犬もいない。花や草木の手入れも、誰もしない。その家にはもう誰も住んでいないから。

私が会ったことのない、その信頼できる親戚は、庭園をどんな風にするのだろう。

過去は美化されがちだという。それは事実だと思う。でも私が今私でありうるのは、綺麗な庭園で遊んだあの日のことがあるからで、小さな幸せに気付けた私はもっとがんばって生きようとしていると思う。そこに、何の根拠も必要ない。

私は、私が幸せになれる風景を知っている。私も一軒家をもし買えたら、どんな大きさでもいいから庭をつくりたいな。

ユートピアがぎゅっと詰まったような、日常のなかにある非日常みたいな、そんな思い出を将来の家族にも見せたい。

そして笑いあって、その場にいるみんなの目のなかに幸せな自分の顔がもぐりこんでいるといいなと思う。

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