五十嵐隆神格化問題/レッテルとしての「メンヘラ」を考える

こんばんは。よろしくお願いします。

五十嵐隆神格化問題

 タイトルにもした話です。syrup16gというバンドについての一考です。

いつかのnoteに、「リスナーの肥大化した幻想はバンドを解散に追い込む」みたいなことを書いたんですけど、syrup16gって今もそういう傾向があるんじゃないかという気がしていて。名付けて「五十嵐隆神格化問題」。

 BASEMENT TIMESさんとかでも言われてますけど、五十嵐隆氏ってもはや宗教法人として一部のファンからは扱われてしまっているんですよね。あるいは救世主とかそういうの。別に音楽の受け取り方は人それぞれなんで好きにしたらいいと思うんですけど。

 でも、五十嵐氏って生身の人間なんですよ。ネガティブな側面ばかりが取り沙汰されてますけど、生身の人間なんだから、ネガティブになることもあればポジティブになることもあるし、嘘もつくし成長もするし退化もするでしょう。だからあんまり、「彼はこういう人物だ」とか「この歌詞はこういう意味に違いない」とか「この歌詞はまさに私の気持ちを代弁してくれている」とか、あんまり思わない方がいいんじゃないかなって。いや、嘘ごめん、思ってもいいけど、口外しないほうがいいんじゃないかという気がしています。

再結成後のMIX問題

 もう一つ、気になることがあって、これは前述の問題とも関わっています。私、最近はよく再結成後のアルバムを聴いているんですが、再結成後のアルバムに入っている楽曲って、ライブ映えする曲が多いな〜と感じるんです。音源よりもライブのほうがかっこよく感じるというか。逆に、解散前の楽曲は、「ライブ映えする」というよりは楽曲の良さが再確認できるものが多いな、と感じます。

 で、なにが原因でこういう感じ方の違いが起こってるんだろうと考えてみたところ、一つの仮説が浮上してきました。もしかしたら私の耳が悪いだけかもしれませんし、イヤホンがカスなだけかもしれないんですけど。(9000円くらいのやつです)

 再結成後のアルバムのMIX、五十嵐隆の声だけなんかデカくないですか?

 あんまり自信ないんですけど、でもなんというか、楽器の音よりボーカルが優先されている気がしていて。少なくとも絶対Free throwの楽曲よりはデカいと思う。だからライブでの演奏という形になったとき、ボーカル・ギター・ベース・ドラムの四つ全てがバランスよく聴こえて、よりかっこよく感じるんじゃないかなあ、と考えたんです。

 で、そうやって世の中に広く販売される音源のMIXが、ボーカル優先でなされているとすれば、その原因ってたぶん、リスナーが五十嵐氏を神格化してしまっているところにある、のではないでしょうか。リスナーの氏に対する過度な期待、需要の肥大化に応えようとした結果、そういう風になっているのではないでしょうか。

 ニコニコ動画などで活躍されている歌い手さんのCDとかも、結構ボーカル主体でMIXされてることが多いんですよね。それってやっぱり、楽器自体というよりはボーカルの声の方が需要が高いからこそ起きている現象なんだと思います。

 先ほど比較対象としてFree throwを挙げましたが、あれはメジャーデビュー前のアルバムのはずで、だとすれば、恐らくですが、メジャーデビューをした後よりもメンバーの意向がより強く反映されてると思うんですよね。技術の問題もあっただろうとはいえ、Free throwのボーカルってめちゃくちゃちっちゃくないですか? サビ以外のところとかほとんど聴こえなくない? 

 それがもし、メンバーの意向により強く沿った形であったとするならば、今ボーカル優先で音源が作られているという事実は、果たしてメンバーの意向に、ひいては五十嵐氏の意向に沿ったものなのか、っていう疑問が出てきてしまって。

 なんかもう、独立したらいいのに、syrup16g。syrup16gのことえこひいきしてくれてるスタッフ引き抜いて事務所作ってほしい。それでまたFree throwとかHELL-SEEみたいな音質のアルバム作ってほしい。

 いや、嘘。こんな意見なんてなにも気にしなくていい。好きにやってほしい。頼む。リスナーの機嫌なんて取らなくていい。それがたまたま自分たちのやりたいことと一致してるんならいいけど、そうじゃないなら全然突き放してくれていい。ただ、自分に誇れる音楽を作ってほしい。それだけです。

 正直、ここまでに書いてきたことなんて、全部気持ち悪いオタクがうがちすぎてるだけの気持ち悪い妄想文であることは重々承知しています。でもこういう深読みをせずにはいられない。なぜなら私は気持ち悪いオタクだから。

 でも、リスナーの言動って、やっぱりバンドの行先に影響すると思うんですよね。(実際、syrup16gのメンバーも同じようなことをなんかのインタビューで言ってた)それを思うと、考えすぎなくらいでちょうどいいのかなあという気もしています。もう絶対解散してほしくないし。多分耐えられないし。自分の精神が。


レッテル・ブランドとしての「鬱」を考える

 少し話は変わりますが、syrup16gはよく「鬱ロック」「メンヘラ御用達」という紹介のされ方をされるようです。

 良いか悪いかは置いておくとして、私はこの「鬱ロック」というレッテルがめちゃくちゃ嫌いです。

 「鬱」「メンヘラ」という言葉、最近はレッテルというか、ブランドの一つとして使用される傾向にあると個人的に感じていて。「メンヘラ」なんて、本来は他称で使われる(しかもあまりいい意味で使われない)ものだと思うんですけど、自称する人の方が今は多いんじゃないでしょうか。いわゆる精神疾患に対して多少なりとも理解が深まってきた昨今だからこそ出てきた現象なんだなあ、と思うんですけど。

 確かに、「鬱」とか「メンヘラ」って言葉、非常にキャッチーで使い勝手がいいんですよね。言語化しがたいもやもやした気持ちやネガティブな感情を、そのニュアンスを保ったまま伝えることができるので。だから安易に使いたくなってしまう気持ちはわかるんですけど、なんというか、「好きなものを紹介するのに、そんな安易なキャッチコピーに頼るな」と思ってしまうんですよね。

 syrup16gって、絶対「鬱」「メンヘラ」なんていう言葉だけじゃ言い表せない魅力を持ってるはずなんですよ。そんな簡単なバンドじゃないですよ絶対。じゃなかったらこんなに熱狂的なファンは生まれませんよ。

 使い勝手の良い他人の言葉を借りて、自分の好きなもののことを語るなんて恥ずかしくないのか。と、思います。本当に好きっていうんなら、どんなに支離滅裂でわかりづらくてもいいから、ちゃんと自分の言葉でその魅力を伝えてくれよと。そっちの方がたぶん、何倍も熱のこもった言葉になるはずで、そういう熱って絶対誰かに刺さるので。私、結構色んなところで色んなバンドに対しての愛を延々と一人で語ってるんですけど、それに引っかかってそのバンドの曲を聴いてくれたり、好きになってくれた友人が何人かいるので、間違いないです。

 ていうか安易にsyrup16gのこと「鬱w」とか言うやつがいるのも五十嵐隆神格化問題の原因の一つだろ絶対。ふざけんなマジで。キャッチーな言葉を適当に使ってウケようとすんな。

 音楽を他人に紹介しようと思ったら、「この曲聴いて」だけで十分ですよ。はじめから言語でないものの魅力を、わざわざ言語で表そうというのなら、それなりの労力が必要です。そこに労力を払えないのであれば、もう黙ってMVのリンク貼ってくれ。


 以上、syrup16gというバンドとその受け止められ方に対する、個人的な雑感でした。ここまで見てくださった方がもしいらっしゃいましたら、本当にありがとうございます。さぞかし読みにくかったことと察します。「思う」「考える」とか曖昧な言葉を多用してぼやかそうとしてるのがバレバレだったことでしょう。チキンなので断言できない。

 以上、終わりです。



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