子どもたちの哲学対話

「異なる意見を尊重し合う」(中日新聞1月14日から)
愛知県犬山市を拠点に哲学対話に取り組むグループ「犬てつ」

(記事の抜粋)
正解が一つとは限らないと言われるみんなで話し、考える「哲学対話」に注目が集まっている。
本年度から小学校で全面施行された新学習指導要領が「主体的・対話的で深い学び」を柱に据えたことも後押しする。

自分たちで競技を考える運動会を開催する上で、「どんな競技にするか」という最終段階で意見がまとまらなかった。直前の回では、子ども側の提案で「『まとめる』とはどういうことか」が議題に。
「自分の意見を譲れない人もいる時、どう決めたらいいの?」
2時間かけても着地点が見えず、「困った・・・」

こうした過程は実社会に重なる。「自分の当たり前と、他の人の当たり前は違う」という状況の中で、対話を通じて合意形成を図る営みだ。

運動会をめぐる議論では、・学校とは何か・学校に行かなくてはいけないのか・運動とは何か–と正解のないような抽象度の高いテーマも話し合った。

今回の意見は今後「どんな社会を作っていきたいか」を考えるときに応用できるはず。
「違いを認め合いながら、一つのもの作り上げるのは思ったよりも簡単ではなかったね。『決める』とはどういうことか、また振り返りをして考えましょう」

(私の考え)
産業革命以降の日本の学校教育では、今現在も教室で全員同じ方向を向いた机が並べられ、先生は教科書に沿って知識を伝える。問題には正解が用意され、それを的確に素早く答えられることが求められた。

しかし、1990年代にインターネットや携帯電話が普及してから情報化社会が到来し、既に30年が過ぎた。日本政府はようやくデジタル庁なるものを創設するが、社会は確実に変わっており、教育が今まで通りでいいはずがない。

そんな時代の変化の中で、「哲学」という古来からある、「世界や人生の究極の根本原理を客観的・理性的に追求する学問」(精選版日本国語大辞典)を利用して議論し合う。

今まで当たり前だと思っていた既成概念が、「あー、そういう見方もあったのか。確かに・・・」などとなる。

しかし、これを学校でやろうとしても、発言するのは、アウトプットが得意な子か、目立ちたがり屋の子だけになるだろう。そうなると、普段から発言しない子、手をあげるのにかなりの勇気を必要とする子にとってはハードルが高い。

タブレットが用意されているなら、メール機能などで、あるお題に対する自分の考えを一斉に送信してもらい。先生(この場合はファシリテーター)も含め、あらゆる考え方を知り、さらに議論を深めていくことが、全ての子どもにとって自分の頭で、自分なりに物事を考えるという学びになるだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?