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出会う前に、出会わされるこれまで続いてきた学び

ある男の子。ドラえもんが好きで、科学系に興味がある。

中学受験を考えていて、受験(その学校では検査というそうだが)では、集団討論があるので、時事問題を投げかけて、そのことについてその子がどんな意見を発するか聞いてみた。

お題は「ミャンマーで起きている国軍の弾圧の現状」

このことについてはニュースでみて、少しは知っていたが、ネットの動画をもう一度見てもらった。社会科では日本の歴史、そして公民も学んでいるので、今の日本や戦前の日本などと比較して、何を話すのかと待っていると・・・

なかなか言葉が出てこない。

あれ、社会科で習った内容があまり分かってないのかな?と思い、教科書に書いてあるすでに習った国家のこと、政治のこと、江戸時代の一揆などのことを説明を加えながら、再確認した。その後、「何でもいいんだ。正解を求めてるわけじゃないからね」と伝え待っていると・・・

「うーん・・・」顔色がだんだん曇ってきた。

どうしたんだろう?

すると、「男の子を殺すなんて、軍のやることじゃない。ぼくは、こういうのが好きじゃないんだ。こういうことはあまり考えたくないんだ。」

それからもう少しの間、好きじゃない理由を話していたが、あまりの勢いに何を言っていたかこちらが忘れてしまった。

私は、社会で習ったことと絡めて何か話すだろうと少なからず予測していた。しかし、出てきた言葉は違った。出てきた言葉は何でもいいとも思っていたので、「そうか、そうなんだね。それがあなたの考えだ。よく伝わったよ」とその男の子に伝えた。

正解はない問い。答えは一人一人から出てきた言葉。

しかし、その前に、子どもたちは、普通に暮らしていたら、出会うはずのない情報を学ばさせられているんじゃないかと感じた。これが、ネットやテレビからの情報なら、自分の興味のないものはスルーすればいい。しかし、学校の一斉授業や受験のための勉強では、そうはいかない。その知識を知っていることが求められるからだ。

成長していく過程で、何かのきっかけでそのことに興味を持つかもしれない。その時が「出会う時」なのに、ドラえもんの世界、科学の実験が好きな男の子は、あまり興味のない情報に「出会わされている」と感じた。


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