見出し画像

3.11

 11年前のあの日、3月11日は、日本にとって大きな意味を持つ日になった。
直接に被災したかしていないかに関わらず、あの日あの時、日本であの震災を目の当たりにした人は少なくとも何かしらの影響を受けたはずだ。

 わたしにももちろん記憶がある。忘れることのできない記憶。物理的、身体的には何ひとつ傷つけられていないが、それでもシンクにこびりついた水垢のように、どうしても取り除くことのできない、記憶。

   わたしはあの日、東京都北区にある会社のビルの5階で仕事をしていた。今日と同じ、金曜日だった。お昼休みが終わり午後の業務を開始した直後で、ちょうど眠くなってくる頃。売店にコーヒーでも買いに行こうかと思っていたところだった(うちの会社の売店は14時〜14時半が休みなので14時半になったらコーヒーを買いに行くことが多かった)。
   当時も今もわたしの職種は営業で、外回りももちろんあるのだが、その日はたまたま外出の予定がなく、午後も社内で作業や事務処理などの業務を行う予定だった。同僚の数人は午後になり外出していった。人の少なくなったオフィスでその揺れを経験した。
   会社は2011年の1月に、新築の自社ビルに移転したばかりだった。未だかつて経験したことのない大きな揺れを感じたが、「新しいビルだ、きっと大丈夫だ」と自分に言い聞かせながら耐えるしかなかった。でも倒壊したらどうしよう、うちの会社お世辞にも潤っているとは言えないし、工事費ケチってる可能性めちゃくちゃあるし、、、

   揺れがとても長かったと記憶している。おさまった後も、しばらく揺れているような感覚が抜けなかった。誰かが「これやばいんじゃない」と言い、社内放送で「ビルの外の駐車場へいったん全員避難するように」とのアナウンスがあった。新社屋に移転した直後で避難訓練を行ったばかりのわたしたちは、比較的スムーズに避難した。
          また誰かがスマートフォンのニュースで「東北だ」と言った。「マグニチュード9.0だ」「震度7だ」とそこかしこから聞こえ始めた。どれも聞いたことのない数字だった。震度7?そんな地震あるの?それから「お台場が燃えてる」と言う声が聞こえた。もう仕事にならなかった。停電など、具体的に業務に支障をきたす状態ではなかったが、交通機関がストップしたことや、学校などでも避難や下校を進めているなどの話があり、帰宅できる状況の人は早めに帰宅するように、との指示がでた。比較的近くに住んでいて子供が帰ってきてしまうような状況の同僚は歩いて帰ると言っ て、早々に退社した。電話回線が非常に混み合い、得意先とも連絡が取れず、また外出した同僚の安否を確認しようにも携帯が繋がらない状態がしばらく続いた。3階の食堂に唯一テレビが設置してあったので、社に残っている人はほとんどが3階でテレビに釘付けになっていた。 

   津波が来るまでは、お台場の火災がもっとも大きく報道されていたように思う。わたしたちは得意先や、外出した同僚と引き続き連絡を試みながら、テレビのニュースを食い入るように見た。これは本当にまずいかもしれない。そう思った。わたしは地下鉄が止まって、歩いて帰れる距離でもなく、また金曜日だったので慌てて帰ることもないと思い、社に残っていた。まだ大きな余震がある可能性も報道されていたし、最悪会社に泊まったほうが安全かもしれないとも思った。田舎の親からも電話があって「会社にいるのか?会社にいるなら無理して帰らず会社の人たちと一緒にいた方が安全だからそうしなさい」と言われた。

   ニュースで被害が報道されるにつれ、深刻さが増していた。本当にひどいことが起きたと思った。なぜ、こんなことが。現実を受け入れることがすぐには難しかったが、テレビやインターネットの力か、受け入れざるを得ない現実が次々と報道された。情報が何もなく、何が起きているかわからないのも怖いけれど、何もかも見ることができてしまうこともまた、とても怖いことだと知った。
   営業車で外出した同僚が戻ったのは深夜だった。都内の交通が大混乱に陥っていたからだ。社員食堂で社長の判断で臨時に夜食(メニューはカレーのみ)が振る舞われた。わたしは深夜1時を回った頃に地下鉄が運転再開したとのニュースを見て、帰宅を試みた。動いてはいたが途中一駅分だけ止まっている区間があって、そこだけ歩いてまた地下鉄に乗り、なんとか家にたどり着いた時にはもう3時を回っていた。体はクタクタに疲れているはずなのに、神経が昂っているのかすぐには寝付けなかった。

 寝付けない頭で思い出していたのは、さらに遡ること15年ほど前の1月17日、早朝に起きたあの阪神淡路大震災のことだった。その頃わたしは高校1年生で、福岡市に住んでいた。朝5時46分はぐっすりと眠っていたが、朝起きて居間に行くと母が「大変なことが起きた」と言ってNHKのニュースをじっと見ていた。
 余談だがわたしの母には少し霊感の強いと言うか、勘の鋭いところがあって、何か遠くのものとシンクロしてしまうことが時々あった。母はその日、朝5時46分に「とてつもない揺れを感じて」布団から飛び起きたのだと言った。もちろん福岡は揺れていない。母は感じたのだ。神戸の大地が揺れるのを、福岡で。とにかく母は飛び起きて、テレビをつけ、ニュースを見た。テレビに映る神戸は、燃えていた。高速道路が折れ、崩れ、街は燃えていた。
 その日も学校があったので普通に登校して、午後家に帰ってニュースを見たら犠牲者の数が桁違いに増えていた。その後も、ニュースを見るたびに、千人単位で犠牲者の数が増えていった。高校生だったわたしは、ニュースを見るのが怖くなった。見たらまた死者が増える。これ以上人が死ぬのを見たくない。怖い。辛い。家族に言うことができず、布団の中でひとりで泣いた。見ず知らずの人が亡くなったことがこんなにつらいとは思わなかった。わたしは傷ついていた。

   3月11日の夜、と言うか3月12日の明け方、わたしは1月17日を思い出していた。寝てまた起きてニュースを見たら、とんでもない数の命が失われたことを知るのだろうか。あの1月のような思いをまたするのだろうか。それから数日間は、やはり夜になると涙を流す日が続いた。昼間は仕事が大混乱に陥っていていろいろなことの対応に忙しく、文字どおり忙殺されていたから気を張れていたが、夜になるとぽっかりとあいた深い穴にはまってしまう。

 繰り返すが、わたしは2度の震災のどちらにおいても、物理的あるいは身体的に直接被災はしていない。傷ついてもいない。
けれどもわたしの心は傷ついた。実際に被災された方がたに、どう思われるかちょっと不安だけれども、傷ついたのだと思う。ちょっとしたトラウマになっていると言ってもいいかもしれない。ある日突然に、自然の大いなる暴力的な仕業によって、住むところ、命、家族、大切な人、物、そのすべてを奪われ、破壊され、貪られること。その理不尽。
 日本は火山国で、プレートも入り組んでいて、これからも大きな地震は怒ると断言されているし、実際そうなのだろうと思う。わたしが生まれ育った福岡市は比較的地震が少ないところだったから、大学進学で上京し、震度2〜3程度の地震はしょっちゅう起きていることを知り驚いた。最初は少しの揺れでも恐怖を感じていたが次第に何も感じなくなった。慣れと言うのは本当に怖いものだ。

 人は自然の一部であり、地球に暮らす様々な生き物の一種でしかない。自然の猛威に人は、勝てない。できることはよく備え、その時が来たら耐え忍ぶ、それだけだ。

 3.11のことを思い出すとき、わたしは失われたたくさんの命と、自然の脅威を思う。傷ついた心と、そこから立ち上がる強さを思う。わたしたちはそれを忘れてはいけない。心の何処かに常に3.11の記憶をピンで留めておかなくてはいけない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?