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松陰神社のことを詳しく知りたい!

こんにちは。
sbccの稲田 紗弓です。

若林に住んでいると松陰神社も歩いてすぐそこなので、三軒茶屋までヨガをしに行った帰りに寄ってくることもよくありました。

一年を通して人が参拝に訪れていますが、特にお正月は参拝客で賑わっています。

松陰神社って誰を祀っているの?

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松陰神社はその名からも分かる通り吉田松陰を祭っている神社です。

ちなみに御祭神は「吉田虎次郎藤原短方命(よしだとらじろう ふじわらのりかたのみこと)」と言います。

創建されたのは明治15年11月21日なので、139年前に建てられた神社です。

吉田松陰ってどんな人?

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吉田松陰は山口県萩市の出身で、幼い頃に吉田家の養子となったのですが同家が山鹿流(やまがりゅう)兵学師範の家でした。

11歳でお殿様の先生になり、18歳で免許皆伝、22歳で山鹿流兵学の最も高い免許の三重傳を受けています。

その後、藩命で江戸留学が実現したのですが、友人の仇討ちを手伝うために藩からの身分証明書(過書)を持たずに江戸を離れてしまったため罪に問われて身分を剥奪されて浪人となりました。

その後、藩主の計らいで諸国遊学10年の許可をもらったため再び江戸へ向かいます。

投獄から松下村塾の開塾まで

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ちょうど、ペリーが浦賀に来航した時で実際に黒船を目にする事になったのですが、アヘン戦争のことを知っていたので日本が西洋諸国の植民地になってしまうのではと心配し、西洋兵学をより一層勉強するようになりました。

西洋兵学を学べば学ぶほど、実際に学んでみたい熱望するようになり、再び日本へ訪れたペリーに米国へ連れて行って欲しいと懇願するものの認められず、海外渡航を計画したと自首をして投獄されてしまいます。

その後、萩の野山獄に約1年2カ月投獄したのちに杉家(生家)に戻る事が許されました。その時に叔父が開いた「松下村塾」の名を貰い塾を開きました。

わずか2年しか開塾していなかった「松下村塾」ですが、伊藤博文、野村靖、山縣有明など明治維新に関わった多くの若者がこの塾で学んでいました。

安政の大獄と吉田松陰の最期

吉田松陰の運命を大きく変えたのが安政の大獄ですね。大老の井伊直弼が日米通商条約に調印して、これに反対する人々を投獄し罰した事が安政の大獄として知られています。

吉田松陰も藩主や塾生同志等に意見書を送ったのですが、この考えは幕府を脅かすとされ再び萩の野山獄に投獄されてしまいます。

その後伝馬町の獄に入り、自分の意見を誠の心をもって伝えれば幕府もきっとわかってくれると考えていましたが、結局届かず死刑となりました。

世田谷区若林に松陰神社が創建されるまで

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処刑された吉田松陰の亡骸は小塚原回向院に埋葬されました。

小塚原回向院があった小塚原は江戸時代にあった三大刑場の内の一つで、現在は荒川区指定記念物(史跡)小塚原刑場跡として文化財になっていて、小塚原回向院には当時の墓石が文化財として保存されています。

その後、松陰の門下生の伊藤博文や高杉晋作らの手によって長州藩の下屋敷があった世田谷区若林に改葬されました。

禁門の変が起こり松陰らの墓は一度破壊されてしまいますが、明治新政府が樹立されたのちに藩命を受けた木戸孝允が新たに墓碑を建て、その隣に社を築いたことが松陰神社の始まりです。

門下生たちと一緒に眠る

木戸孝允が墓碑を建てた際に、墓域の入り口に鳥居が建てられましたが、この鳥居は木戸孝允が奉納したもので、「大政一新之歳、木戸大江孝允」と刻まれています。

また境内には松陰先生他烈士墓所もあります。ここには松田松陰の他に頼三樹三郎、小林民部、来原良蔵らの墓碑があります。

社殿の右側には松下村塾がありますがこれは山口県萩市の松陰神社境内に保存されている松下村塾を再現したものです。

その他には伊藤博文や山縣有朋らによって奉献された石灯籠が32基あります。

松陰神社について

東急世田谷線「松陰神社前」から徒歩約5分ほどのところにある松陰神社に良かったら足を運んで見てくださいね。

春は桜、夏は新緑、秋は紅葉など様々な顔を見せてくれるので、季節ごとに参拝するのも良さそうです。

ちなみに山口県萩市にも松陰神社がありますが、もともとは杉家の人々が松陰を祀るためにほこらを建てていて、それを伊藤博文らが公に神社として創建させたと言われています。


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