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ミュージカル『フィスト・オブ・ノーススター~北斗の拳~』配信感想

©武論尊・原哲夫/コアミックス 1983 版権許諾証GS-111


ミュージカル『フィスト・オブ・ノーススター~北斗の拳~』の配信の感想。

金曜ロードショーで放映した方がいい

 とにかく強く感じたことなのだが、配信を一人で見ていたら心の置き所がわからなかった

 これは笑っていいところなのか?
 虎の顔が随分大きくはないか?
 この用語はどういう漢字で書くのか?
 この人は……誰……?

 ミュージカルのことも北斗の拳のこともあまりよく知らずに見てしまったがゆえ、どういう気持ちで見たらいいのかわからない部分が多すぎた。

 「なぜ見た」と言われそうだが、その質問には「なんとなく面白そうだったから」で十分だろう。
 実際、かなり興味深く見られたと思う。

 だからこそ言いたい。
 これは金曜ロードショーで放映すべき作品である。

 金曜ロードショーには、「特定の日に長時間の作品を見る」という視聴習慣の根付いた顧客がいる。そして彼らの一部はTwitterなどでリアルタイムに感想を呟きながら見ている。
 そこには有識者の解説や界隈の住人なら知っている「お約束」あるいは初見者の新鮮な驚きが溢れており、それらを参照することで適宜他者の反応をちらちら見ながら視聴することができる。自分の中にはなかった知識や発想に触れることで、何度目かの視聴で新たな発見があることもあれば、興味のなかった未見作品が一夜にして宝物に変わることもある。
 ミュージカル『フィスト・オブ・ノーススター~北斗の拳~』にはその触媒的TLが必要である。

 これは勝手な偏見なので間違っているかもしれないが、「北斗の拳」と「ミュージカル」の両方にめちゃくちゃ詳しいという人はそこまで多くはないだろう。ちょっとした異文化交流である。
 だから「北斗の拳」に惹かれて見た人は「ミュージカル」のお約束について知らないし、「ミュージカル」だから見に来た人は「北斗の拳」のことはよくわからない。
 私のように「北斗の拳」も「ミュージカル」もよく知らないという人は宇宙猫の顔をしていたかもしれない。この作品を深く鑑賞するにはある程度の教養が必要なのだ。

 そこで「金曜ロードショー時のTL」である。これがありさえすれば、未知の分野について事前に勉強しなくても「あっ、ここは笑っていいところなんだ!」「あっ、虎の顔が大きいのはこういう理由があるんだ!」「あっ、あれ『南斗最後の将』って書くんだ!」「あっ、あの人、指揮者の方だったんだ!」と膝を打ちながら見られるのである。その波に乗りながら視聴を続けていくと、なんとなく見方がわかってくる
 そして「何度目だfons」と言われる頃には私も「虎の顔大きくない……!?」と戸惑う初見さんの感想を「ふふ……」と眺めることができる。「#おうちでアタタ」というタグが本当の真価を発揮するのはその時だ。


 配信を見ていた時、

ケンシロウ:(とどめを刺す)
敵役の人:ひでぶ!!
背景の文字:ひでぶ
オーケストラによる音楽:ジャンッ!!
観客:パチパチパチパチ…(拍手)

という流れがめちゃくちゃおもしろかったのだが、「ヨッ待ってました」的シーンとして捉えていいのかわからなかったので心が不安定になってしまった。完全にシリアスなシーンとして作られたのであればそれを嗤うことになり失礼だからである。
 あとでツイッターで調べたところ、どうやら心の中で「ヨッ」と思ってもいいシーンだったようなので安心したのだが、こういう情報はリアルタイムでもらえるとより心置きなく楽しめるのではないかと思う。真面目そうなミュージカルでも、おもしろシーン(意図して面白くしているシーン)はあるらしい。

 そう、我々は(主語が大きいが)ミュージカルについて知らなすぎるのである。人生で一度も劇場で見たことがない、または「劇団四季は見たことあるけど……」という人は少なくないのではないだろうか。
 その文化をさらに世間に浸透させ、なんか面白そうだから他のミュージカルも見てみようかなと思ってもらうためにも、ツイッター認知度の高そうな(「地上波でやるなら見てみるか〜」と思う人が多そうな)ミュージカル『フィスト・オブ・ノーススター~北斗の拳~』を金曜ロードショーで放映し、有識者たちの感想に触れながら(端的にいうと実況で盛り上がりながら)見てもらうべきなのである。
映画じゃないけど。


「テニミュで見た」

 始まってすぐ、世界観の説明や登場人物の紹介をしてくれる歌があるのだが、「こういうのテニミュで見たな」と感じ、なぜか安心感を覚えた。ケンシロウが闘っている時に他のキャラクターが色々と解説してくれる歌の時も「おっいいぞ」と落ち着いて見られた。おそらくそういう歌や演出に関しては既視感があり、心の置き所がわかったからであろう。

 「テニミュで見た」と言っても、ニコニコ動画の「Aitsu koso ga Tennis no Oujisama」を知っている程度であり、テニミュそのものについて深く馴染みがあるわけではない。
 それでも、昔は「なぜ急に歌い始めるのか納得できない」いわばタモリさん派であった私が、「Aitsu koso ga」に触れたことで「そういうものだ」と思えるようになったのはかなり大きい。一種のカルティベイトである。日吉若(2年)のプロフィールは乾が教えてくれるしケンシロウの闘いはレイが解説してくれる。

 以前この記事(テニミュの「空耳」動画 著作権違反もスルーされた理由)を読んでいたこともあり、自身の人生に「テニミュ」が与えた大きさを実感してしまった。「テニミュがあったからアナ雪もなんの違和感もなく見られた」とすら思う。そして、「ミュージカルに違和感がない私」に育てられている我が子は映画アナ雪の公式ミュージッククリップを何度も繰り返し流しながら歌い踊っている。
 テニミュとアナ雪は日本の20-30代あたりの一部の人々(最少催行人数:1人(私))に「ミュージカルを抵抗なく見られる土壌を育んだ」という点で偉大な功績を残していると思う。
(著作権違反動画を放置せよと言っているのではない)

ミリしらでも興味深く見られた

 作品の話に戻るが、どんな顔をして見たらいいかよくわからなかった点を除けば、興味深く見ることのできる作品であった。話に置いていかれることもなく、しらけることもなく、最後まで集中して見ることができた。原作からどの程度まとめられているのかはわからないが、ペース配分や盛り上がりなどの起伏も程よく、物語の流れもおおむね理解できたと思う。

 途中で「舞台ではないところに立って音楽に合わせて上半身を躍らせるおじさま」が映し出されたので戸惑ったが、以前生演奏のあるミュージカルを観劇したことがあったため彼がオーケストラの指揮者の方だと推測することができた。このクイズ(クイズではない)は難易度が高いと思ったが、他の登場人物については特に混同することなく見られたので、外見や台詞、歌、振付でキャラクターの描き分けが巧みになされていたのだと思う。特にトキの動きが常に流麗なのが印象的であった。なお難しいとは思うが配信で出演者以外の方を映すときはテロップなどでの紹介が欲しい。(指揮者の方はとても活き活きしていらっしゃったのでカメラで抜かれること自体はよく理解できる)

 また、ミュージカルとしてかなり大事なところであると思うが、全体的に曲がいいと感じた。耳にスッと入り、「全然頭に入ってこない歌だな……」と思うことが一度もなかった。ケンシロウの歌で一瞬アナ雪の「ありのままで」になりそうでならない歌があり、そのメロディになる度に「ハッ」として注意力を喚起されるのが良かった。

 ワンピースだとサンジが好きなせいかミュージカル『フィスト・オブ・ノーススター~北斗の拳~』ではジュウザが好きだと感じたのだが、彼のソロ曲もわかりやすくラテン系でカッコよくてよかった。これが『プリンス・オブ・ノースブルー〜ONE PIECE〜』であればサンジがこのような曲調になるであろう。
 私はワンピースの物語を内面化してしまっているが(多感な時期に読んだところまで)、おそらくこのミュージカルは「北斗の拳」の物語を内面化している人が多く見ているのであり、とすれば、目の前でこのようにキャラクターたちが活き活きと立ち上がり、それぞれの思いを歌い上げるというのは感慨無量であろうと想像できた。
 「それぞれの思い」、というのは漫画や小説では大事な要素だが、映像作品での実写化ではそれを過不足なく表現するのは難しい。過剰にナレーションを多用されれば興醒めだし、モノローグが単純なダイアローグに改変されていては台無しだ。
 ところが、ミュージカルならこれができる。愛や哀しみを、誰にも言えない心の叫びを、ミュージカルなら歌にのせて語ることができるのだ。これは今回個人的に重要な発見だった。
 原作はどうなのかわからないが、舞台上のケンシロウや世紀末を生きる人々は、声にならない声を上げ続けていた。これが台詞と歌の組み合わせで表現されることで、目に見えて激情のバリエーションが豊かになる。また特にケンシロウは自分の気持ちをそんなにベラベラ喋ったりしなそうなイメージがあったが、歌でなら喋らずに伝えられるので違和感がない。しかもそれに並行して行動もできる(檻の柵を曲げるとか)のでわりと効率が良い。
 北斗の拳を生身の人間でやるにあたって映画でも普通の舞台でもなく「ミュージカル」というフォーマットを選んだことに「ケンシロウが歌うだと?」と違和感があったが、実際にこの目で見て納得した。寡黙そうなケンシロウがその心の内を我々に明かすために、歌はなかなかに相性の良い表現手法のように思えた。


なぜ今「北斗の拳」なのか

 しかし、である。個人的には、「今なぜ(他の現代作品ではなく)『北斗の拳』なのか」という点についてはまだあまり理解が及んでいない。
 単純に「あまりミュージカルに馴染みのなさそうな層の人たちを劇場に呼びたい」「世界的にも人気な作品なので海外へも発信できる」というだけであったなら、了解である。実際に成功しているのかは知らないが狙いについてはよくわかる。この話はここで終わりだ。

 もしそうでないなら、気になったのは、どこに「今だからこそ『北斗の拳』」という要素があったのか」である。気になりすぎて、本作の脚本・作詞を担当した高橋亜子氏のインタビューを読んだ。作業は3年前の12月に始まったとのことである。2018年の12月だから、少なくとも企画の立ち上がりはコロナ禍が始まるよりも前のようだ。とすればきっかけはコロナ禍ではなく、もっと長いスパンで見た現代における何かだろう。プロデューサーから脚本をとの話があったとのことで、高橋氏からの持ち込みではなく、それ以上のミュージカル化の背景には触れられていなかった。パンフレット等に記載があるのかもしれないが、買うまでには至らなかった(経済的な余裕がない)(考えるより買ったほうがコスパが良さそうだが)。

 制作側の意図はよくわからなかったので、個人的な感想だけを述べたい。

 まず「今に訴えかけてくるものがある」と思った点は、「子どもが疎まれる」という世界観である。
 舞台は核戦争後の世紀末。暴力が支配する世界であり、子どもは足手まといになるため子どもを連れた大人は村に入ることが難しい。大人だけなら入れてくれる村もあるため、主要登場人物である少年(バット)がかつて行動を共にしていた母親のような女性(トヨ)を慮り、彼女のもとから黙って姿を消した、というようなエピソードがあった。
 明日どうなるかもわからない世界で、大人が子どもの存在を受け入れる余裕がなくなる。他人事ではなさすぎて書いているだけでつらい。そのような状況において、疎まれてしまうのは子どもだけではないだろう。
 この作品では、そんな世界観にNOを突きつけ、それは間違っている、どんなにひどい状況であれ、子どもたちは大切にされるべき絶対的希望であると語られていたように思う。
 舞台上を支配するように漲るバットのやんちゃさ(と強がり)や、ケンシロウに助けられた少女・リンが立ち上がる姿は、その歌声とともに存在そのものが希望であり祝福であることを体現しており、作品を創作する大人たちが込めたであろうメッセージに素晴らしい説得力を持たせていた。
 また、種籾を守り抜こうとする老人ミスミとかつてバットの母親的存在であった老女トヨが恋を歌うシーンもとても良かった。子どもたちだけではない、私たちは全員希望を宿す存在であるはずだ。強くても、弱くても。そのように語られているように感じた。

 ところがである。たとえばリンがこのまま生き永らえることができたとして、では幸せになれるのかというと、あまりそれを全肯定する気にはなれない。本作の名のある女性は皆奪われるか捧げるかの人生のように見えたからである。マミヤは強くカッコいいけれど、それは奪われた過去により本人本来の意志に反して選択せざるを得なかった道かもしれず、そこから目を逸らして彼女のカッコよさに外からはしゃぐ気分にはなれない。
 そこに見えたのは女性の無力感だ。いや、確かに女性の愛の力も男たちの闘いに大きな影響を及ぼしてはいるのだが、それは「関係者の大半がユリアのことがめっちゃ好き」という特殊な環境だからこそ成立したのであって、ラオウに一方的に好意を抱いていたトウの命は、捧げられてすら特に物語に影響を与えることなく終わってしまった。少なくとも本作の世界では、女性の愛の力は男性に愛されなければ発揮できない、ように見えた。そして愛されたとて、そのユリアですら結局命を捧げることを求められる。女性は犠牲となることでしか物語に参加できないのだろうか?と少し考えてしまった。(これはユリアが平原綾香さんだったら、また印象が違ったかもしれない。そこは見ていないのでわからない)

(男たちの闘いの物語において、女性の自我はあまり出てこないほうが読んでいる方も(男性読者だけではなく女性読者ですら)没頭しやすいのかもしれない、というのは、現在連載中の大人気作品である「東京卍リベンジャーズ」を読んでいる時の己を省みても感じるので、一方的に批判はできない。私自身が「しんどさ」を感じることなく「曲がいい!!」「男たちの物語がいい!!」と思えたのも、そこの恩恵を受けているのかもしれない。ただ、単純に物語のフォーカスだけの話に終わらせて良いとも思えない)
(特殊能力系のバトルだと体格差や体力差があっても最前線で女性キャラクターを活躍させることができるんだな……と最近の少年ジャンプ系の漫画を思い返すなどした。またそういえばキングダムなどでは戦闘や知略に長けた女性が活躍しているな、とも思った)

 このような描写が間違っていると言いたいのではない。むしろ「暴力の支配する世界なら、こうなるよね…………」と、己の弱さ、無力さを再認識したのだ。そして逆に、暴力に抗い闘わなければいけない男たちの哀しみについても考えさせられた。個人的には「女をもっと強くかっこよく描写せよ」とは思わない。おそらくこれがファンの愛した「北斗の拳」なのであろうし、そこを改変してしまっては「北斗の拳」を取り上げる意味がない。ユリアがなぜか無想転生を身につけラオウを追い詰めるとかそんなのは北斗の拳じゃないのは百も承知である。
 そして私が「なぜ今北斗の拳なのか」と疑問に思ったのはこの点なのだ。なぜこのように男女の描かれている(が、素晴らしい作品であるが故にその描写を見直すことが難しい)作品を、今再び新作ミュージカルとして世に送り出そうとしたのだろうか、と思ったのである。女は無力であるというメッセージを再発信することになる可能性があるとは考えなかったのか。「女性の無償の愛こそが真の強さだ、大いなる母だ」というような価値観もあるかもしれないが、私はそれは奪う側の方便だと思う。

 その回答は一部、前述の高橋亜子氏のインタビューで語られていた。それによれば制作側も原作側もこのあたりの問題については認識しており、“男性の理想”としての女性像をどこまで変えられるか、長く話し合いを行なったのことである。原作を読んでいないのでわからないのだが、きっと元はもっと無力感を覚えてしまうような女性像だったのだろう。連載当時はそれが広く受け入れられる時代だったのだろうと思う。現代に上演するにあたり、それを現在の価値観に統合していく作業に心を砕いた方々がいることは嬉しい(そこに無頓着な作品や上辺だけの対応に留まっているものも少なくないと感じるので)。そのおかげで、無力感を覚えはしたものの物語全体としては興味を失わずに見ることができた。この脚本と演出に原作ファンの方々も納得しているとしたらすごいことである。

 それにしてもそこにコストをかけ、女性の観客に無力感を与えるかもしれないリスクをとってまで「北斗の拳」をやったのはなぜなのか……と思うのだが、先ほど述べた「東京卍リベンジャーズ」が現代で盛り上がっているように、「哀しみを背負った男たちの闘いの物語」は今でも私たちを魅了してしまう力を持つのだろう、と、勝手に思ってはいる。実際のところはわからないが(パンフを買え)。ただ、金曜ロードショーで……と書いたものの、これを地上波のテレビで見た若い女性がどう思うのか、無力感に襲われはしないか、というのは心配なので、やはり有料のままの方がいいのかもしれない……とも思った。あるいは、次週に「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を放映してあわせて考察するのもいいかもしれない。
 この段の感想は別に書かなくてもいいかと思ったが、現代に見た者として書かなくてはいけない気がした。

アクションなど 

 アニメや映像での実写化に比べて、舞台上で「生身の人間」が演じることがいかに制約が多いかを知った。しかも、闘いのシーンなどで「デュクシ」などの効果音もあまり使っていないような気がしたので、極力生身で表現しようとしていて単純に「すごいな……」と思った。総合芸術ではないか。
 なおこれは好みの問題だが、ケンシロウを演じる役者さんの身体能力の高さをもっと堪能したかったので、彼の振付はもっとド派手にしてもいいのではと感じた。ラオウの歌の圧がめちゃくちゃに強く「ラオウ……やば……」となるので、ケンシロウからも舞いの圧を発揮して「ケンシロウ……すご……」とならせてほしかった。

次回作の要望と個人的な心境の変化

 この作品のように「異様に重厚感のある大衆向け作品」というコンテンツ(あえてコンテンツという)は意外とそう多くはないのではないか。ぜひこの路線を踏襲して「北斗の拳」に続く作品を制作していただきたい。
 20-40代のオタクはコンテンツに課金することに(オタクでない人に比べて)比較的抵抗がないと思うのだが、基本的に支出先が決まっているためそれをミュージカルに振り向けさせるにはよっぽど馴染み深い何かが必要である。この層のど真ん中に刺さりそうで、演劇に興味がない層にもリーチしそうで、かつ、この路線にしっくりきそうなもの、ということで、「JOJO the MUSICAL」はどうだろう。
 ミュージカル俳優の皆様の筋肉、スタイルの良さ、アクの強さ、異彩を放つ立ち姿、劇画的な作画をぜひジョジョのキャラクターと世界観の実体化に活かしてほしい。歌でバチバチに戦い、生身の身体と音と照明でスタンドをバキバキに表現してほしい。あと名台詞でテンションを上げたい。
 今書いていて思ったが北斗の拳をミュージカル化しようと思ったのもこのような感覚だったのだろうか。だとしたら何年か後に「JOJO the MUSICAL」を見た若い女性は(何部かにもよるだろうが)「なぜ今この作品を」と思うのかもしれない。

 そうか、懐古や実績めちゃ強作品も良いが、めちゃくちゃ良いんだが、それも見たいんだが、私は今、現代の価値観で作られた「今、ここ」の物語も見たいのかもしれない。
 「デスノート THE MUSICAL」ですら、2020年に見た時は警察が男性ばかりで古い風景に見えた。

 ミュージカルの「今、ここ」はどこにあるだろう。
 私たちの声にならない心の叫びを歌ってくれる物語はどこだろう。
 私はミュージカルについてよく知らない。あまり見たこともない。しかしこれから細々と、ミュージカルの「今、ここ」の物語を探していきたいと思った。
 いやそんな経済的な余裕はあまり、ないけれど……

 なぜかそんなことを考えさせられた2022年の初観劇、ミュージカル『フィスト・オブ・ノーススター~北斗の拳~』(配信)であった。

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