首班票忌

2024年夏起点で当分、浅川マキを読みます。1960年代から2010年まで四十〜五十年…

首班票忌

2024年夏起点で当分、浅川マキを読みます。1960年代から2010年まで四十〜五十年に及ぶ作詩、日本語詩の詩業が対象。歌詞の領域を超え、詩の水準に到達した佳作、とくに日本語詩には偶然から生まれたものではない説得する理性を感じた。朝日のあたる家/朝日樓を基点にまずは日本語詩から。

最近の記事

1930年代 口承から音源へ

 米国の鉱夫の間で House Of Rising Sun をタイトルとする曲が歌われていた事実に関しては1905年時点の記録がある。The House Of Rising Sun もしくは Rising Sun Blues を曲名とする口承民俗歌の詳細が記録の時代に入るのは1930年代(1925年に印刷・発行の雑誌に歌詞の一部は既に掲載)。これ以前は口承民俗の時代、詳細な記録は残っていない。口承伝達者の報告では更に数世代前の南北戦争前後には既に記録時代と同様の詳細内容が備わ

    • 1980年頃 絶唱

      【飽く迄も個人の感想です】  2003年頃の事、ちあきなおみの朝日のあたる家が超絶上出来と評判だったらしい。未発の音源を編集し直した商用CDがその頃発売になったから。で、二十年近く経ってはいるが、聴いた。  ちあきの歌唱は喝采の頃から好きで、時にふれ聴いては都度、歌芸の繊細が三半規管から脳髄辺りに常習性を惹き起こす。矢切りの渡し、紅い花、四十代に入ってからが殊に良い。もちろん朝日のあたる家もかなり上出来、感動した。しかし感動の直後にふと、この歌詞でなかったら(こんなに感動し

      • 1971年 改題、朝日樓

        【朝日のあたる家から朝日樓への経緯】 朝日のあたる家 1971年6月  浅川マキが第2LP音盤に収録した朝日のあたる家は新宿・花園神社で録音。長いライヴの雑踏音の後、萩原信義のギターソロで始まり、最後はフェイドアウトから雑踏にかぶせ、ハイヒールとおぼしい靴音のフェイドアウトで終わる。エフェクトの必要性は兎も角として、音像造りは実にシンプルで、ライヴ音源にした意図が明白に伝わる。これが萩原との初めてのパフォーマンスだったか。杉浦芳博の十二弦ギターにはレドベリの残像が仄映る。

        • 1969年 朝日樓

          横の物を縦にしただけ  欧文を日本語に置き換えただけの直訳に近い翻訳の意味で、見掛けは縦書きになっているが、意味・内容やイメージが日本語になっていない、不完全な翻訳をいう。  朝日樓のタイトルで訳した英語原文と高田渡の歌詞を並べた時、如何にも直訳、対訳、逐語訳の印象で、横の物を縦にしただけの翻訳に見えるのは高田の陥穽。構文やイメージの連なりが余りに英語原文に即しているため、あたかも逐語訳や対訳のような見掛けになる。英語の理解力か日本語の創造力か或いは両方がかなり優れているた

        1930年代 口承から音源へ

          歌の遷り変わり

          朝日樓/朝日のあたる家/朝日樓  ここ半年ほど最も濃く浅川マキを聴いた事はない。そこで判った事のひとつが浅川の音楽を何一つ解っていなかったという事実。  五十年近く前の聴き始めが余りにリアルタイムだったから。それもある。  後に三十年以上関わった仕事が音楽とは全く無縁だったから。それもある。  浅川の音楽自身が音楽を超えて広がっていく性質ではなかったから。それもある。   取り敢えず長い無音の後に聴き直す事になった発端は、朝日樓/朝日のあたる家/朝日樓。  1969年、高

          歌の遷り変わり