1980年頃 絶唱

【飽く迄も個人の感想です】

 2003年頃の事、ちあきなおみの朝日のあたる家が超絶上出来と評判だったらしい。未発の音源を編集し直した商用CDがその頃発売になったから。で、二十年近く経ってはいるが、聴いた。
 ちあきの歌唱は喝采の頃から好きで、時にふれ聴いては都度、歌芸の繊細が三半規管から脳髄辺りに常習性を惹き起こす。矢切りの渡し、紅い花、四十代に入ってからが殊に良い。もちろん朝日のあたる家もかなり上出来、感動した。しかし感動の直後にふと、この歌詞でなかったら(こんなに感動したか)と疑問が過ぎった。

 舞台を五反田の秘密クラブに移した2022年翻案版から遡って1965年漣健児超訳版までの日本語版、1965年以前の各種英語版をあらかた聴いてみて明らかにちあきの歌唱は感動する。ただ感動の深さが高田渡、浅川マキの歌唱には差は僅かだが決定的に及ばない。
 言葉に固有の特性かもしれない。高田の朝日樓は高田の翻訳歌詞、浅川の朝日のあたる家は浅川制作の日本語詩、いずれも自作の日本語。言葉の存在理由が抜き差しならない。名作劇中で名役者が語る名演の名台詞は居酒屋で呟く呑兵衛の戯言以上の説得力は持たない。
 ちあきの歌唱を讃えるのは浅川の詩を頌める以上の意味にはならない。高田の翻訳、浅川の詩作は単純に詩的に優れているし、これらが無ければこの言葉での以降の歌唱が全て成り立つ筈がないのは、歴史の単純な原理。

 寺本幸司の記憶として1980年頃のライヴからちあきが同曲を歌うようになった経緯が、浅川マキ没後のインタビュー記事の片隅に載っている。寺本が構成・演出した草月ホールのリサイタルで歌いたいと、ちあきが希望。寺本が電話で浅川に連絡、浅川は歌手がちあきならと同様の件では珍しく快諾したという内容。
 手短に要約すれば、浅川制作日本語詩の朝日樓が歌いたいので、著作権上の了解をとった。それだけの事実。つまりちあきは浅川を詩人として、また、朝日樓を傑作と認めていた。リサイタル当時は浅川マキの音盤発売から既に十年は経過していたのだが。

 ちあきが歌わなくなって後の2003年頃、事実上の引退前のステージでの録音を基に編集し直したCD音盤が発売になった。第一印象は余計な音が多過ぎる。歌詞に出て来るのに殊更な蒸気機関車の効果音、1970年代前半に流行った国産ドラマで定番のバロック風合奏、ほぼ全編べったり歌唱に寄り添うピアノ伴奏、殆ど逆効果音にしか聴こえない。
 1971年末の時点で浅川マキの歌唱にはこれらの逆効果音は既に不要だった。口承民俗歌を愛おしむにはアカペラの歌声だけでよかった。名手の演奏はあっても可だが、歌唱を邪魔しない範囲内。劇仕立の絶唱、思い入れ過剰の熱唱、思い余っての絶叫は不要。名も知れない民衆の間で淡々と伝わって来た口承民俗歌には言葉と音像の両面とも過剰な演出は無用の長物にしかならない。

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