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綾瀬はるかに使ってほしい会津弁「やんだおら」で見直す日本女性の恥じらいの精神

今年は新型コロナの影響で、会津まつり恒例の会津藩公行列は中止となり、大幅に規模を縮小する形での開催となりました。

しかしながら、市内で開催されたトークショーには、会津若松が主要舞台の一つとなった2013年NHKドラマ「八重の桜」で新島八重を演じた綾瀬はるかが参加

ここで彼女は八重の桜でしこまれた会津弁を少し披露します。
会津人にとって会津弁は血肉同然なので、普段あまり意識することがありません。この時期に綾瀬はるかによって思い出すくらいです。しかし確実にその継承者は減少しています。

私はそれがもったいないと思うとともに、現代人が失いがちな、日本人固有の精神性が潜んでいるのではないかと感じるのです。

綾瀬はるかの圧倒的集客力と、披露する会津弁

彼女はこの行事の目玉ゲストとして去年まで6年連続で行列に参加しています。演歌歌手くらいしか来ない会津若松で、国民的女優とも言える彼女を至近距離で拝めるわけですから、これによって藩公行列の見学者数は2倍くらいになったのではないかと勝手に想像しています。

私も2回見学しています。彼女はもう30半ばなのですが、生で見たときのスタイルの良さとその可憐さは異次元。時間と空間は歪むものであるという、アインシュタインの相対性理論が腹落ちする瞬間です。

しかし何時間もずっと笑顔で手を振ってなきゃいけないし、疲れで笑顔も引きつり気味です。Youtubeに動画が上がっている画像は非公式なので紹介がはばかれますが、論説資料として引用します。

スタッフの「ゲスト車両を追いかけるのはやめてくださ〜い」という声で現実に引き戻されますが、これを見たらそりゃ追いかけたくなります。光を求めて飛行する虫たちのように、もはや生物の習性レベルに訴える美がそこにありました。

なお、去年は八重の子ども時代を演じた鈴木梨央さんも参加しました。さすがにそろそろ毎年参加するのがキツくなってきて、若手にバトンタッチしてソフトランディングか?と思わせたものです。しかし、申し訳ないですが、もうちょっと鈴木梨央にも注目してあげてよ、というくらい今の所歴然とした格差が存在しています。

さて、本題から逸れましたが、サービス精神旺盛な彼女は、来るたびにスピーチで会津弁を披露してくれます。

さすけねぇ(大丈夫)は、カッコつけで気丈な会津人の言葉としての代表格。「さすけねぇか」と相手に問うケースではあまり使わない気もしなくもないですが、なかなか高レベルなチョイスです。

他には、使いやすい丁寧語として「〜だなし(〜ですね)」を彼女は多用してくれます。

実は「よく来らったなし」などけっこう使われるケースは限定されていて、何にでもつけるものでもないので、千葉に住んでいた身としてはふなっしーを想起せざるを得ないのですが、これも彼女のサービス精神なので、会津人は全員許しているはずです。

私の精神性は祖母の会津弁で形成されたのではないか

私の中で、会津弁といったら祖母のことばです。

小さいときには学校を中心として全ての生活が会津ですが、祖母の年代ほど濃い会津弁を喋る人は子供のまわりにはおらず、理解できない単語も発します。
会津弁が貴重な無形文化財であり、大事で愛おしいものだなどという教育は一切ありませんから、TVでとんねるずを見て都会に憧れる子どもにとっては、「ダサい」「時代遅れな」ものに感じていました。

しかし会津を出て、別の地の方言に触れてなんとなく違和感を感じたり、たまに帰省して会津弁を聞いたりすると、実は会津弁が自分の精神や価値観の深いところに染み込んでいることに気づくのです。

言語教育から考える、方言の影響

私は幼少期の英語教育は否定派です。
なぜなら、人は言葉で考えるのだから、まずは一つの言葉を十分にマスターしなければ深い思考が得られないと思うからです。日本語の語彙もままならぬうちに別の言語体系が思考に入り込むと、理解が混乱したりお互いが中途半端になりそうな気がするのです。個人意見です。

英語を職にしたり、ネイティブ話者になりたいというなら否定しません。しかし多くの日本人は道具として英語を使えれば十分なので、第二言語として英語を習得する外国人並の発音と、意思疎通ができれば十分だと思いますし、それなら後で英語を学んでも大丈夫な気がします。
(その代わり、発音や表現・考え方に触れる機会は増やすべきと思います。英語アレルギーをなくし、逆に日本語の理解につながるからです。)

つまりは、言葉はその人間の考え方や価値観に影響します。品詞の順番から発音、語源となっている文化まで、思考する言語体系が違えば、当然それを使ってアウトプットされる結果も異なるはずです。性格をも形作ると思います。
世界の人間がすべて英語で思考していたら同じ枠内の考えしか生まれないし、日本人は日本でしか話されない日本語で思考するから、独自の考えや文化が生まれると思うのです。それは良い方にも悪い方にも作用するでしょう。しかし多様性が大事と思っています。

もしその私の考えが正しいとしたら、標準語で育つか方言で育つかによって、価値観や考えも違ってくるはずです。
もしその方言が特有の精神性・文化性を帯びていたとしたら、方言で育てられた私は、否が応でもその言葉を通じて、祖母の価値観を継承していると言えるでしょう。

以下では、私が思う、精神に影響を与えられた方言を2つ取り上げます。幼少期体験による精神への影響というと「トラウマ」という言葉がありますが、悪い影響というよりは良い部分もあると思いますので「原体験会津弁」とでも表現しましょうか。

原体験会津弁その1:いだまし

素晴らしいことに会津弁をまとめたサイトは少なくないのですが、その一つで「いだます/いだまし(いたましい)」という表現が取り上げられています。

標準語では「もったいない」という言葉に置き換えられます。この「もったいない」も日本語特有として、環境分野で初のノーベル平和賞を受賞したケニア人女性、ワンガリ・マータイさんに取り上げられたりもしました。

しかし、「もったいない」というと、「まだ役に立たせることができるのに、十分に使い切っていない」という、なにかエネルギーを搾取しきろうとするような人間本位のニュアンスが感じられます。

しかし「いだます(いたましい)」はそれとは少し異なり、「痛々しい」の意味を持ちます。まだ使えるものを捨てても「痛々しい」とは言いませんよね。その違いにつながる背景について上のサイトから解説を引用します。

会津以北、会津の歴史でも書いたとおり、会津にはもともと山形などから入った山岳信仰がありました。
食材は、山々の恵み、あるいはその山から流れてくる水系がもたらす自然の恵み。
それはただの材料ではなく、大自然の一部なのです。
自然の恵みを食するために分けて戴きながら、残してしまってはかわいそうだと思ったのではないでしょうか。
道具も、もともとは木片や岩石など、大自然の中の材料から作ったに違いありません。
やはり食材と同様に、自然への感謝を持ちながら使い、壊れては直して使っていたのだと思います。
日本古来の針供養や人形供養にもつながる精神性が、会津の文化や言語に残っている気がします

もったいない、というと人間の都合のようですが、会津の人は「いだます(いたましい)=かわいそう」と、食材や道具に感情を移入し万物に魂が宿ることを子供の頃から知らず知らず教えられているのではないでしょうか。

だから会津弁の「いだまし」は、子どもが事故で亡くなったりしたときにも使います。そこには同情と感情移入が入り、その言葉を向けられた対象に一瞬自分を同化させるのです。

私はけっこう物に感情移入することが多いのですが、影響があるのかもしれません。断捨離できずに物が増えるのをそのせいにしています。

原体験会津弁その2:やんだおら

次は「やんだおら」。直訳すれば「嫌だ、私」。女性しか使いません。
上で引用したサイトでは下記のように解説されてます。

笑い話で大笑いした時などに言う、女性言葉。
男性は使いません。
標準語で言うなら・・・ちょっと難しいですがニュアンスとしては「うっそ~!信じらんな~い!」とか、「やだぁ、おっかしぃ~♪」くらいでしょうかね。

実際はこれだけではなく、普通に「嫌だ」「不快だ」という感情を表す場合にも使います。

しかし、この言葉で特筆すべきは「肯定にも使える」ということです。

例えば、男性に誘われたとき。

もし照れた表情ではにかみながら「やんだおら」と女性が返したならば、それはOKということになります。

他のサイトでは「恥ずかしい」とか「いやだ どうしよう」という意味が記載されているものがあり、それに近いです。「言われて恥ずかしいけど嬉しい」という感情表現になるのです。

褒められたときのリアクションって難しいですよね。

したたかな女性は、「うれしぃ〜」って笑顔で言う気がします。たいていは、言われた相手がどうでもいい相手で、本当はさほど嬉しくなくてもそう言います。
男性は自分本位ですから、自分が言ったことに肯定的なアクションがあったというだけで勘違いしてしまうことになりかねません。

一方で、「いや、そんなことないですよ」という人がいます。上と違って不器用な女性が多いでしょうか。
謙遜じゃなく本当にそう思っているなら別として、褒めてほしいところを期待通りに褒められてもそう言うこともあるし、肌が綺麗だとか目が大きいとか、見た目のことで物理的に明らかにそうであってもそう言われることがあります。
褒められたことを肯定すると鼻にかけて自慢しているように思われるからそうするのかもしれませんが、言った方としてはどうしても「否定される」ことになるので、どうしても「言ってごめん」的な感覚になってしまいます

そこで「やんだおら」の肯定的言い換えに相当する「いやだ、どうしよう、恥ずかしい」なんてリアクションが返ってきたらどうでしょう。これは男性からすれば100%いける感じがします。しかし、あからさますぎて、女性はよほど好意のある相手にしかしないでしょう。

しかし、「やんだおら」の場合は「恥ずかしい」という意味の言葉は直接入っていないので、本当に言われて嫌な相手ならきつい言い方にすれば言葉の意味そのものになるし、受け入れた言い方をしてもそこまでの「あからさま感」はなく、褒め言葉を肯定して鼻にかけている感じもない。YESとは言ってないので、おいそれと男を受け入れた感じもせず貞操観念も守れる。すごく便利です。

今は、英語の影響や犯罪の影響もあってか、YES/NOをはっきり主張しなさい、と習うはずです。
「結構です」「いいです」→「いいえ、要りません」という具合です。

しかし、もともと責任を曖昧にする言葉である日本語にとっては、ビジネスなど明確な意思表示が必要なケースや、勧誘を断る目的以外では、なるべく使いたくない、きつい表現です。

一方で、一度使い慣れると、楽で仕方ない。今までいろいろ気を使って言葉を選んでいたのはなんだったのだろう、とすら思います。
言いかえれば、日本人は曖昧な言い回しを使いこなすことが、相手に対する気遣いの精神の体現であり、それが心地よい雰囲気作りに一役買っていたと感じるのです。それが「態度が曖昧で良くない」と切り捨てられるのはちょっと現代の経済論理に偏っている感じがします。

その点「やんだおら」は、和・共存・恥の文化、うまく言えませんが、かつて夏目漱石が I love you を「月が綺麗ですね」と訳したように、そんな価値観や精神性が現れた日本固有の美しい方言なのではないかと思うのです。

で、その女性ことばの「やんだおら」がなぜ私にとって原体験会津弁かというと、女性にそういうリアクションを期待してしまうし、言う方も曖昧になりがち、ということですね。そして「うれしぃ〜」系女性はいけるのかどうか判断できない。はい、ただの言い訳です。

綾瀬はるかに話を戻すと、彼女は見た目や人気などを褒められることがよくあることでしょう。そんな場合は恥ずかしそうなに「やんだおら」って言ったなら、たぶん一定年齢以上の会津人男性のほとんどを悶絶させることができると思います。
韓国語よりももっと会津弁を学んでほしい!

方言はやはり尊い

私の祖母は昨年亡くなりました。
はっきり言って性格が合わす、小さい頃に嫌な思いもしたし、母親とも仲が悪かったので、あまり好きな存在ではなかったかもしれません。
しかし、とにかく情が深い。そして今回取り上げた会津弁。この2点が深い部分で私に影響を与えている気がします。

会津弁を自在に操れるのは祖母の世代が最後です。
そんな祖母が認知症になり最期はやっかいな存在となってひっそりと息を引き取った様は、会津弁の状況と重なって見えて切ない気持ちになります。

言葉も文化そのもので、世の中がグローバル化するほどローカルが輝きます。冒頭で会津弁の衰退が「もったいない」と書きましたが、これに「いだまし」のニュアンスはなく、もっと外にアピールして地域振興に活用すべきという経済利用の観点から出た言葉です。

しかし、もしなくなってしまうのならそれは文化の消滅であり、先人が継承してきた大事な精神性がなくなるのは先人が無になるのに等しく、「いだましい」ことほかなりません。

自分で使いこなすことはできなくとも、その存在と価値は次世代に繋ぎたいと思いますね。


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