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親の怯えが子どもの自己肯定感を下げているのかも?

人が自らの"欠け"を意識するのはいつからなんだろう??

いつから人は、人と自分を比較して劣等感を持つんだろうか?
学校教育のせい?
それとも家庭の影響?

という話を夫から振られて…
改めて"欠け"について意識した話です。

日本の子どもたちの自己肯定感の低さは有名ですけれど。
では…
どうしたら子どもたちの自己肯定感をあげられるのだろう?
どうしたら自信を持てるようになるのだろう??

考えてもなかなか難しいですよね。

いくら自分は自分と言ったところで、人間というのは社会性のある生き物であって。
社会と切り離しては存在することができない以上、どうしたって社会の中での立ち位置が気になってしまうの当たり前のこと。
それを否定するのもまた不自然なことなのかもしれないですし。
マズローの言うように、承認されたい欲求というものが人間には備わっているのでしょうし。。

もしかしたら
これは、私の想像なのだけど
親自身の"欠け"への怯えが、子どもに伝染するのかもしれないなと。
親の怯えが、子どもに見透かされてしまっているのかもしれない。
親が親自身の"欠け"に怯えているから、恐れているから、子どももそれを感知して恐れるのだと思うの。

それは動物的な感受性。
ある種とても原初的なプリミティブな感覚。
動物のボスが恐れるモノは脅威として群れが従うだろうし。
人間も動物であるし。
価値観を参照するのは身近な大人。
狼に育てられたアマラとカマラのように
アヴェロンの野生児のように、環境によって大きく影響を受けるわけで。

危険を察知する能力は、生存本能として何よりも本来は敏感なはず。
だから……
親の恐るモノは、きっと怖いモノにちがいない、そう生存本能が告げる。

だから子どもたちも"欠け"に怯えるんじゃないかな?と。
親の怯えが深いほど、子は劣等感を肥大化させる。
どんなに親が口では、それを否定しても。
心の奥底の怯えは、子どもの鼻に嗅ぎつけられてしまうから。
子どもってそういうところすごく動物的ですし。。

まずは親が心から"欠け"を良いものと思える状態になることが、子どもの自己肯定感を上げる最短の道なのかな?と思うんです。


既存の教育は子どもの"欠け"を埋めて、より円に近い人物を育てようとしている気がする。
個性の伸長とは言うけれど。
実際の学校では…赤点は許されないわけで。
いかに"欠け"を埋めて、より円を大きくしていくか。
つまり"潰し"の効く範囲を広げていくイメージで。
足りないところを埋めて埋めて埋めて。
完璧な人になろうと。

丸く満ちて。
幸せは満ちているイメージ。
追い立てられているように。
知識や技能、或いは経験を詰め込んでいく。

それだとみんな丸くなっていくわけですよね?

"社会の摩擦を減らそうと思うと、人は均質になるざるを得ない。
角があってはぶつかるから…丸く丸く。
均質で無個性になっていく。"
というようなことを社会物理学の本で読んだ。

そう思うと
完璧であること=丸
って……引っかかるところが無いからとても孤独なのかもしれないよね。

人間って欠けている凹の部分に、誰かの凸が引っかかるから繋がれるんだなあ、と思って。
そうしたらむしろ凸凹している方が、たくさん人と繋がることができる気がしてきませんか??

私は処女だった時、自分は完璧な存在に感じていたんです。
能力が完璧という意味ではないです。
人を知らないが故に自分だけで完成されているような感覚。
皮膚に包まれている私。
破れのない、完璧な自己。

だけど初めてセックスして人を知った時に
自分はもう一人ではいられないと感じたんです。
破れてしまった自己。
ぽっかりと空虚な穴が心に空いた気分だった。
一生涯埋め続けていかなくてはいけないような…喪失感。
有り体に言えば、自分が不完全な人間であると知ったということなのですが。

でもその虚ろな穴があるからこそ、人は埋め合えるんだとその時に感じたんです。

何かの映画で
「男と女は鍵と鍵穴」だという台詞を聞いたけれど
それは男女に限らず、人間同士みんなそうなんだと思う。(もちろん精神的な意味)

凸凹があるから、埋め合える。

それがない完璧な人間だったら?
どれほど孤独だったろう。

どうしてこの皮膚を破り割いて、脱ぎ捨てて、魂が誰かと一つに溶け合ってしまえないのか?
そう思ったこと、多くの人があると思うんです。
肉体に魂が閉じ込められているような感覚。
どうしてこの肌を脱いでしまえないのか?
人と溶け合えないのか?

その孤独感から抜け出す方法はいくつもあって。
セックスはその一つでしかないのだけれど。

だから私は自分に欠けがあって良かったと心から思う。
(セックスはあくまで比喩的に例示しただけで、経験の無い人が孤独だという話ではありません)

欠けていることを恐れる必要は全く無い。
むしろ喜ぶべきことなんだと私は思っている。

完璧な摩擦の無いつるりとした真円のどこを掴めば良いですか??
誰とも引っかからないですよね。
摩擦が無いのだもの。。


そんな私の息子は、とても自己肯定感が高いです。
どんなに失敗しても、負けても、転んでも、ドンマイ!と言える自己肯定感。

「今、全てに対して自信に満ち溢れているんだよね!」と中学校にあがってからは特に自己肯定感が爆上がり中。
笑って何事にもチャレンジする子に育ちました。

彼の口癖は
「とにかくやってみるよ!!」

やってみなきゃわかんないし、ダメならダメで良いんだ!
やってみなきゃ楽しいかつまらないかもわからないんだから!
そう言ってどんなことも楽しめる。
すごい才能だと思う。

学校も理不尽なことばかりだけれど。
それすらも楽しんでしまう息子。
せっかくなら楽しまないと人生損だって。言ってます。
我が子ながら、その楽天家ぶりに驚かされます。


何が言いたいかと言うと
最近私が思うのは
お子さんのことばかりに必死になっていて
親御さんたちがご自分の心を癒せていないんじゃないかな?ってことです。

後回しにし過ぎじゃないかな?
世のお母さん、お父さん。
もう十分頑張っていて、すごいです。
なのに、まだまだもっともっとって頑張ろうとしていないのかな?
その焦りを子どもたちは察知しているかもしれない。

幸せになるには、何かを得て詰め込んで、埋めて、満ちていないと!
という強迫観念が刷り込まれていく。

まずは親御さんがご自分の心を癒していけば、子どもたちは自然とうまくいく気がしてます。

欠けていて良い。
ではなくて
欠けているからこそ、人と人は繋がれるんだということ。
欠けているからこそ、あなたは素晴らしく。
あなたらしいということ。
欠けていて良かったね。

そしてあなたの凸があるから
私の心も癒されるの。
ありがとう。

そんな気持ちで生きられたら。
きっと子どもたちも、私たちも、自己肯定感があがるんじゃないかな?って思うんです。

できないことや苦手なこと、支え合って生きていける世界になったら良いのにね。


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