見出し画像

6月28日(1995年) ルーキーがVゴールをアシスト ついに勝率5割へ

 1995年6月28日(水)、浦和レッズは大宮サッカー場に横浜マリノスを迎えてJリーグ1stステージ第20節を行い、延長の末2-1で勝利した。これでレッズは10勝10敗。ステージ終盤に差し掛かろうかという時期に勝率が5割になったのは、これが初めてだった。

半ばを過ぎての5割は初めて

開幕戦で大勝すれば第1節を終えて首位、ということになる。
 レッズも開幕直後であれば、1勝1敗の勝率5割になったことはあった。また1994年の2ndステージは第7節時点で4勝3敗と勝ち越していた。しかし、全26試合のステージの20試合目で勝ち数と負け数が同じというのは、レッズが過去2年間と異なり、Jリーグの中で他のチームに伍して戦えている証明だった。

 そりゃ、中位の証拠だろ。威張ることじゃない。
 そのとおり。だがそれまで毎年、優勝争いが激化してくる時期に蚊帳の外の、そのまた遠くにレッズは位置していたのだ。そのころを思えば、気分は雲泥の差であったことを理解してほしい。

劇的な決勝点とその後の光景

 そして試合がまた劇的だった。
 前半はほぼ互角の展開だったが、後半攻勢を強めてきた横浜Mに先制される。しかし、このカードの前半戦、第8節の横浜M戦でも2ゴールを挙げているウーベ・バインの同点弾で追い付くと、そのまま延長へ。延長前半9分、バインからパスを受けた途中出場の福永泰が左からシュート! と誰もが思った。当時、日本代表のキャプテンを務めていた横浜Mの井原正巳もスライディングでシュートブロックに来た。すると福永はシュートせず、右へパス。そのボールを、走り込んだ広瀬治が完全にフリーでゴールへ蹴り込んだ。

 Vゴール勝ちはこのシーズン3度目だが、ホームゲームでは初めて。ピッチになだれ込んだのはベンチの選手だけではなく、ジャケット姿のホルガー・オジェック監督がその先頭に立っていた。歓喜の輪、というより組体操の人間ピラミッドがつぶれた後のような状態の中心は、もちろん決勝点を挙げた広瀬。そしてアシストした福永だった。

サポの心を「わしづかみ」したヤス

 福永はこの年、青山学院大学から加入したルーキー。それまであまり知られていなかったことだが、プロ契約をかわしていない練習生という扱いだった。同じ大卒ルーキーの土橋正樹が序盤からボランチで起用され、活躍していたのに対し出番はなかなか回って来ず、6月17日の第17節アルビレックス新潟戦で初めてメンバー入り。18節のベルマーレ平塚戦でJリーグデビューし、この横浜M戦が2度目の出場だった。

 キレの良いボールさばきや重心の低いドリブル。ボールの有無にかかわらず、気の利いたエリアに顔を出して味方のチャンスを広げるプレーなどが小気味良かったが、何と言っても最後のVゴールを演出したシュートフェイントが圧巻だった。
 空スライディングをさせた相手の井原は「アジアのリベロ」とも異名を取る選手。そのDFの名手を子ども扱いするような落ち着いたプレーと、「広瀬さん、どうぞ」とでもいうような優しい正確なパス。とてもデビュー2試合目のルーキーとは思えない風格させ感じさせた。サポーターの心を「わしづかみ」した「ヤス」の誕生だった

「大宮伝説」の全要素が詰まっていた

「大宮伝説」とは、チームとサポーターが完全に一体となった闘い、点を取られても逆転する粘り強さ、とりわけ最後に競り勝つVゴール。そういうものが、僕の、というより当時のサポーターの心に深く刻まれているのだが、その要素が全て詰まった最初の試合がこの6月28日の横浜M戦だった。
  
 ドラマティックな勝利で勝率5割に乗せたレッズは、ここからサポーターの気持ちと共に1stステージの順位も徐々に上げていく。同時に、福永も自らのプレーで練習生からプロ契約への道を切り拓いたのだった。

 さて、みなさんは1995年6月28日、何をして何を感じていましたか?

※この内容はYouTube「清尾淳のレッズ話」でも発信しています。映像はありませんが、“ながら聞き”には最適です。
【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?