見出し画像

12月31日(2005年)MDP天皇杯決勝特別号を発売開始、幸せな1日だった

 2005年12月31日(日)、浦和レッズは第85回天皇杯全日本サッカー選手権決勝に向けて、浦和レッズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム天皇杯決勝特別号を発行した。日付は2006年1月1日だが発売開始は前日で、レッドボルテージをはじめ、店舗を持つパートナー各社の協力で販売された。この年は、スーパーの「与野フード」でも取り扱ってくれたので、よりファン・サポーターの手元に渡りやすかった。

 MDPでカップ戦決勝の特別号を発行したのは、2002年のヤマザキナビスコカップ決勝が初めてだった。その後、2003年、2004年と3年連続の発行になったが、2005年のナビスコ杯は準決勝で敗れた。

 その実績があるため天皇杯でも決勝に進めば特別号を出すことは自然の流れだったが、問題が一つ。
 このころの天皇杯は準決勝が12月29日、決勝が元日というのが定番のスケジュールだった。準決勝から中2日だが、カップ戦の決勝はホームゲームではないため、決勝のスタジアムでは販売できない。それで前日の発売開始になっているのだが、そうなると中1日になる。前の試合から中1日の作業でMDPを出すというのは通常やったことがなかった。

 リーグ戦が終わり、天皇杯5回戦でFC東京に勝ったとき、この勢いなら決勝まで行くのではないかと思ったが、MDP特別号は工程上難しいかな、と思っていたとき、印刷会社の人から連絡があった。
「清尾さん、16ページなら中1日でできますよ」
 30日の夜から印刷を始めて、31日の早朝に完成させる。通常なら29日ごろには機械を掃除して仕事納めとなる会社なのに、特別なスケジュールを組んでくれた。ゴールデンウイークでも発行があるときはMDPに合わせて作業をしてくれる会社だが、年末となるとまた違うはずなのに。聞けば、年末年始に実家などに帰省しない人たちでシフトを組んでくれたという。社員にはレッズサポーターも少なくなく、決勝に進んだときに発行されるMDP特別号に関われることを喜んでくれているとも聞いた。そんな話を聞くと胸が熱くなる。

 29日の夜に準決勝が終わり(しかも延長だったし)、選手に取材し、事務所に帰って徹夜で作業。そのまま大原に行って選手と監督に取材。事務所に帰って夕方までに終了。約24時間で僕の手を離れた。

 この31日は、早朝印刷会社に行き、出来上がったMDPを受け取った。販売個所への配送はやってもらうが、サポーターに直接、100部、200部の単位で渡す分の1500部くらいを自分で運んだのだ。そして10時ごろ、与野フードの店舗に行った。お正月準備の買い物客に交じってどれくらいMDPが売れるか見たかったのだ。その店ではレジの近くに置いてくれていた。それまでもスタジアムやボルテージでMDPが買われていく様子を見たことはあったが、一般のお店で販売されるのは初めて見た。うれしいような申し訳ないような不思議な感覚だった。ありがたくて、レジの前に行って手伝いたくなった。

初めての天皇杯決勝特別号

 その後、サポーター何人かと会い、予約してもらったMDP数百部を渡した。残りは翌日、国立へ持っていく分だ。夕方、国立の隣の明治公園に行き、あちこちにできているサポーターの輪に挨拶していく。もちろん、もれなく酒が入る。みんな初めての天皇杯決勝で高揚の度合いが一段と高い。
「清尾さん、MDPないの?」とよく聞かれた。「明日持ってくるよ。俺でなくても持ってる人がいるはずだから、買って」と答える。明治公園でおおっぴらに売るわけにはいかない。あくまで、サポーターが仲間の分を代理購入して当日渡す、という形なのだ。

「ROAD TO FINAL」のページを作るときが楽しいです

 何時に帰っただろう。終電ではなかったが、だいぶ遅かったことは間違いない。MDP漬けの幸せな1日だった。
 翌日はもっと幸せになるぞ。

 さて、みなさんは2005年12月31日、何をして何を感じていましたか?

【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?