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5月7日(2000年) 自分の驕りに気づくはずの初黒星だったが

開幕8連勝で迎えた山形戦

 J2で戦った2000年、当初は「勝点120をいかに減らさずにシーズンを終えるか」だと僕は思っていた。
 他の10チームと年間4試合ずつ戦い、すべて勝点3を取れば勝点120。つまり全勝を目標として、引き分けや負けをどこまで少なくするか、だと考えていたのだ。

 この年は「浦和レッズがJ2に落ちたのは何かの間違い。俺たちが戦う場所は本来ここじゃない。レベルの違いを見せなければならない」という発想が、開幕近くなっても残っていた。いや、頭の中にはそれしかなかったと言った方がいい。
 まだJ2にいることを信じられなかったし、納得できなかった。そういう考えが自分を支えていたのだと思う。これに関しては「3月11日のあの日」に詳しく書いた。

 実際、開幕してからもその発想は変わらなかった。
 水戸ホーリーホック戦に危なげなく勝利したのを皮切りに、開幕8連勝したのだから無理もなかった。
 J1の下位に沈んでいた川崎フロンターレにナビスコカップ1回戦の第1戦で0-3の大敗を喫したときも「ベストメンバーではなかったから」「大事なのはリーグ戦だから」「第2戦は2-1で勝ったから」と、心の中で理由付けをしていたと思う。
 そんな中、迎えた5月7日だった。

山形の警備が初めて経験したであろう開門前の待機列。長く長く続いていた

失点はオフサイド、に見えた

 2000年5月7日(日)、浦和レッズはアウェイ山形県総合運動公園陸上競技場で、モンテディオ山形と2リーグ第11節を行い、0-1で敗れた。

山形県総合運動公園陸上競技場がこんなに赤く染まったのも初めてではなかったか

 試合はそれまでと同様にレッズが攻勢を取る展開だった。山形の10本に対して28本のシュートを放ったが、ゴール前に人数をかける山形のゴールを割れなかった。後半アディショナルタイム、山形のFKがレッズのゴール前に上がったのをいったんクリアしたが、それを拾われ再びパスを出された。決勝点を挙げた山形の真下佐登史がいた位置はオフサイドに見えたし、レッズは激しく抗議したがもちろん認められることはなく、主審に詰め寄った選手に警告が出された。

この年のMDPに初めて載った「黒星」の文字

 J2リーグ9試合目にして初黒星だった。翌日の試合結果により、レッズはこのシーズン初めて2位に後退した。
 第11節だが9試合目というのは、奇数リーグのため第9節は試合がなかったことと、4月9日に予定されていたコンサドーレ札幌との第6節が、有珠山の噴火により延期になったからだ。このシーズン、最大のライバルと目された札幌との対戦が先送りされての8連勝だった。9試合を終えて札幌は8勝1分け、レッズは8勝1敗。お互いに延長勝ちを1つずつ含んでいた。

負けてもなお「本来ならJ1」

2位になったのも悔しかったが、全勝の予定に土がついたこと、そして勝点27になっているはずなのに、この早い時点で4ポイントも減らしてしまったことがショックだった。
 だが「山形戦は、オフサイドを見逃した誤審によるもの」という思いが強く、本来なら自分たちはJ1、という発想から完全に転換するにはまだ少し時間がかかった僕だった。

今でもあれはオフサイドだと思っているが、そうだとしても何も変わらなかっただろう

 みなさんも、そうではなかったですか?

 さて、あなたは2000年5月7日、何をして何を感じていましたか?

※この内容はYouTube「清尾淳のレッズ話」でも発信しています。映像はありませんが、“ながら聞き”には最適です。
【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。


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