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3月29日(1995年)居られなかったことが残念、28人のPK戦

 まったく、この試合に行っていないとは、なんて間が悪い奴だ。いや、自分のこと。
 1995年3月29日(水)。浦和レッズは国立競技場をホームに、名古屋グランパスエイトを迎えてJリーグ第4節を行った。

 ホルガー・オジェック新監督を迎えてスタートしたシーズン。開幕戦をアウェイで落としたが、第2節はホームで勝利。アウェイの第3節は敗れ、1勝2敗でこの名古屋戦を迎えた。

“弱小仲間”だったが相性最悪の名古屋

 1993年と94年、連続年間最下位という屈辱を味わったレッズだが、94年の2ndステージだけは最下位を免れ11位で、そのときの最下位が名古屋だった。名古屋は93年も1stステージ9位、2ndステージ8位と振るわなかったので、ガンバ大阪も加えて3チームを「Jリーグ初期の弱小チーム」と論じられることが多い。
 言わばレッズと“下位仲間”の名古屋だったが、2シーズンの対戦成績はレッズの1勝7敗と圧倒的に分が悪かった。この時期の強豪チーム、鹿島アントラーズ(93年1st優勝)、ヴェルディ川崎(93年2nd、94年2nd優勝)、サンフレッチェ広島(94年1st優勝)に同じく通算1勝7敗だったのは、まだうなずける(納得してはいけないが)。しかし下位の名古屋にも歯が立たなかったのは不思議だった。おまけに唯一の勝利は0-0の末のPK戦勝ちであり、8試合通算の得失点はレッズの7得点28失点。“オリジナル10”チームの中で最も点を取られており、相性は最悪と言ってもいい相手だった。

テレビの前で「勝つぞ」と気合

 こんな天敵のような相手だが、ふだんから絶対的な強さを誇っているわけではないので、試合前にはなぜか負ける気があまりしなかった。
 この95年の試合も、今日こそ勝つぞ、とテレビの前でこぶしを握っていた。
 テレビ?
 そう。「3月18日(横浜フリューゲルス戦)」と「3月22日(ジェフユナイテッド市原戦)」のときにも書いたが、このとき原因不明の病気に見舞われていた僕は、開幕から2試合はフラフラになりながらスタジアムに行ったものの、そこで力尽き第3節からは自宅で療養していた。病院の検査結果を待っていた時期だったかもしれない。第3節のガンバ大阪戦はアウェイでテレビ中継がなかったから、このシーズン初めてのテレビ観戦だった。

 病気と言っても、立って歩いたりしゃべったりすることは不自由だが、テレビを見るには何の支障もなかった。字がよれよれだったからメモは取っていなかったが、レッズがずっと押していたと記憶している。名古屋のGK伊藤裕二に止められていた印象がある。記録を見るとシュート数はレッズが12で、名古屋が8。圧倒的ではなかったが、後半だけは8対2と大きな差があったから、このときのイメージが強いのかもしれない。
 とにかく90分+延長の30分でスコアレス。PK戦に入った。

PK戦では強い!はずだったが

 ここで、名古屋相手のリーグ戦唯一の勝利がPK戦だった記憶がよみがえった。何の根拠もなく、勝った!と思った。
 実際、勝ちそうだったのだ。名古屋の先蹴りで始まったPK戦は、先行の5人が蹴り終わって3対3。サドンデスに入り、8人目までが両者成功。しかし名古屋の9人目が外した。これでレッズが決めれば勝ちだ。しかしレッズの9人目、岡野雅行がお付き合い。
 がっかりしたが名古屋は10人目も外す。天はまだ我々を見放してはいなかった。今度こそ、と固唾を飲んで見守った池田太のキック。これも外れた。
 GK同士の11人目も両者が決め、選手が一巡しても決着がつかなかった。こんなPK戦は少年サッカーでも見たことがなかった。女子の試合でお互いに決められず長く続いた試合があったが、一巡はしなかったはず。
 結局、14人目。名古屋は決めたが、レッズは後に監督を務めるギド・ブッフバルトがこの日2回目の失敗をして、試合は名古屋の勝利に終わった。

 Jリーグ史に残る総勢28人のPK戦。この現場に居られなかったことが、今でも残念でならない。ちなみに写真は2枚とも、国立での別の試合のものだ。

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 さて、みなさんは1995年3月29日、何をして何を感じていましたか?

※【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。



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