3月18日(1995年)オジェックの初陣にボロボロの清尾
1995年3月18日(土)。浦和レッズは三ツ沢公園球技場で横浜フリューゲルスとJリーグ開幕戦を行った。
初の外国人監督が就任
このシーズンの目玉はホルガー・オジェック監督の就任だ。
1992年の誕生以来、レッズの指揮官は森孝慈氏、横山謙三氏という、三菱出身の元日本代表監督が務めてきたが、93年、94年の連続年間最下位という状況から脱却を図るために、ドイツ人のオジェック氏を招聘した。
「皇帝」と呼ばれたスーパースター、フランツ・ベッケンバウアー氏がレッズのアドバイザーをしており、同氏からの推薦だったはずだ。オジェック氏は、西ドイツ代表が90年ワールドカップイタリア大会で優勝したとき、同代表のアシスタントコーチを務めていた。
レッズはこの年、初めて鹿児島県指宿市でのキャンプを行い、3月12日には前年のアジア大会で優勝して注目されたウズベキスタン代表とのプレシーズンマッチで勝つなど、順調な仕上がりを見せていた。
横浜Fに負けたことしか記憶にない
Jリーグ草創期に成績が悪かったことで知られるレッズだが、中でも93年には横浜Fに公式戦で一度も勝てなかった。リーグ戦4試合、ナビスコカップ1試合、天皇杯1試合と全ての大会で対戦し6敗。まるで歯が立たなかった。
しかし94年はリーグ戦で3勝1敗、天皇杯で1勝とかなり盛り返した。数えると92年からの3年間で一番多く公式戦で対戦しているのは横浜Fかもしれない。
そんな相手だから、新生チームが力を試すには適していたかもしれない。
悪い試合ではなかったと思うが、0-1で敗れた。だが試合内容は覚えていない。開幕戦だから何かのエピソードがあったかもしれないが、全く記憶がない。
いや、エピソードならあった。僕が病気に罹っていたということだ。
何の役にも立たなかった僕
この年、2月中旬から体調がおかしくなり始めた。どこかが痛いとかいうのではなく、意味なくフラつくのだ。駅のホームで電車を待っていると、後ろへ倒れそうになる。道を真っ直ぐ歩けなくなる。バランスが取れなくなったという感じだ。
そのうち、しゃべりも呂律が回らなくなってきて、歩き方も酔っ払いのように1mぐらいの幅を蛇行しながらでないと進めなくなった。頭の中は大丈夫だったが、たとえば電卓で計算をするとき、どこまで入力したわからなくなった。ワープロ(当時はパソコンでなく)も、思ったキーに指が行かずミスタッチの連続だった。
いま思えば、そんな状態で開幕戦の三ツ沢に行ったのだから、とんでもないバカモノだった。当時、会社員ではあったが一人で仕事をしているような状況だったから、上にも下にも止める者がいなかった。
行くのは何とかなった。電車で乗っていれば横浜には着く。駅からタクシーに乗ればスタジアムまで行ける。
しかし試合中は悲惨だった。尊敬する先輩の真似をして、当時はマニュアルフォーカスで写真を撮っていたのだが、とてもピントが選手の動きに追い付かなかった。また撮影中に使う小さな椅子があるのだが、自分がいま椅子を置いた場所に腰を下ろしたつもりが、ズレて尻餅をついてしまった。ゴール裏のサポーターから笑い声が起きたのを覚えているが、それに構う余裕もなかった。
砂漠にオアシス、地獄で仏
そんな僕の様子を見て、どこかおかしいと思ったのだろう。ハーフタイムだか試合後だか忘れたが、ゴール裏にいたサポーターの吉沢康一さんが「清尾さん、大丈夫?」と声を掛けてくれた。すごく有り難かったが、そのとき何か頼めることはなかった。
そんな状態だから、とにかく一枚でもMDPで使える写真を撮ることに必死で、試合の流れを見ることなどできなかった。当時の僕は一度に二つのことをしたり考えたりすることができなかったのだ。字もまともに書けなかったから、試合内容をメモることもできなかったはずだし、そもそもメモを取らなくては、という考えすらなかっただろう。
焼いてみると誰にも見せられないような写真ばかりだった。中でもマシかなというのがこれくらいだ。
さて、みなさんは1995年3月18日、何をして何を感じていましたか?
※【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。
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