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3月10日(2001年) J1に戻ってきた! それを実感した開幕戦

 2001年3月10日(土)。浦和レッズは名古屋市瑞穂球技場で名古屋グランパスエイト(当時)とJリーグ開幕戦を行った。

1年で復帰したJ1
 
 Jリーグディビジョン1。
 1シーズン、留守にしていたステージに帰ってきた。
「初モノ好きの浦和レッズ」という形容詞をよく聞く。良い「初モノ」だけではないから好きなわけではないのだが、Jリーグの中で「初めて」に該当することは少なくなかった。今回は「J2に降格して1シーズンで復帰したクラブ」の第1号ということになる。

チームはブラジル色に変貌

 前年、J1復帰に黄信号が灯ったとき、クラブはテコ入れとして横山謙三ゼネラルマネージャーが総監督に就任し、ヴェルディ川崎や日本代表チームで実績のある、ブラジル人のルイス・フラビオ氏をコーチとして招聘。その流れで、J1再挑戦元年のこの年、チームはブラジル体制となった。
 外国籍選手は全員新加入でFWトゥット、MFアドリアーノ、MFドニゼッチのブラジル人3人。チームスタッフには、チッタ監督をはじめ、コーチ、GKコーチ、フィジオセラピスト、そしてホペイロに至るまでブラジル人が就いた。
 ある意味では「新生」レッズにふさわしかったとも言えるが、それまで監督も選手もドイツを中心にヨーロッパ出身者がほとんどだったことからすれば、まさに“一新”だった。
 ただ、やるなら徹底した方がいいのかもしれないと思った。これまでレッズとあまり縁がなかったブラジル流だが、サッカーの世界では最も馴染みのある外国だから、それほど違和感はなかった。

復帰、即J1優勝と本気で考えていた



 この年の2月、依頼されて、週刊少年マガジンにこんな拙文を載せてもらった。
 最後を除いて冗談のオンパレードなのだが、勤務先の埼玉新聞社に抗議の電話があったらしい。僕は直接受けていないのだが「鹿島と柏のサポーターをバカにしている」という内容だったという。いま読むと僕にしては“はしゃぎすぎ”の感じで、それほどJ2から復帰したことがうれしかったのだと思う。
 実体験でたとえると、1年の浪人生活を経て大学に合格したとき、あるいは1年大学を留年して就職が決まったときに近かったと思う。J2を浪人生活にたとえるのは良くないと思うが、当時はそれしか匹敵するものがなかったから。
 合格さえすれば俺は大丈夫。
 J1復帰すればすぐに優勝を目指せる。
 その根拠のない考えも同じだった。

パススピードの違いにがく然

 名古屋は当時、現在パロ瑞穂という通称の名古屋市瑞穂陸上競技場と瑞穂球技場を主に使用していたが、後者は93年と94年に一度ずつ行ったきりで、レッズは7年ぶりに球技場で試合をした。開幕戦なのになぜ狭い方のスタジアムを使ったのかはわからないが、よけいに“久々感”が高まったことは確かだった。
 俺たちはJ1の試合をやるためにここにいるんだぞー! と叫びたくなった。

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 しかし試合を見てがく然とした。
 GK西部洋平、DF山田暢久、井原正巳、西野努、土橋正樹、MF室井市衛、石井俊也、阿部敏之、小野伸二、FW岡野雅行、トゥット。見劣りするメンバーではないが、やはり1年間のJ2生活が響いたのか(井原とトゥットを除く)、パススピードの部分では名古屋が上回っていた。そこは悔しかった。
 前半はスコアレスだったが、後半2点を奪われた。2点ともストイコビッチが絡んでいた。

 記念すべき再出発は黒星だった。もちろん残念だったが、J1で戦った実感がヒシヒシとして、復帰の喜びをあらためて味わった。
 開幕戦の負けは多いが、一番“残念度”が低かったかもしれない。

 さて、みなさんは2001年3月10日、何をして何を感じていましたか?

※【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください

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