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8月12日(1995年) 初のステージ開幕戦勝利は長崎で6-0

 8月10日の「あの日」は、「4ステージ連続開幕戦黒星」だった。1993年の1stステージから1994の2ndステージまでの4つのステージ、すべて開幕戦に敗れた、というもので、こう言うとステージ連続開幕黒星は4でストップしたかのようだが、そんなことはなく、1995年3月19日の1stステージ開幕戦も、アウェイで横浜フリューゲルスに敗れた。5ステージ連続開幕戦黒星だった。
 だが、ついにそのときがやってきた。しかも、大きな“おまけ”をつけて。

 1995年8月12日(土)、浦和レッズは長崎県立総合運動公園陸上競技場に乗り込んで、横山フリューゲルスとJリーグ2ndステージ開幕戦を行い、6-0で勝利した。レッズがステージ開幕戦で勝利するのは、これが初めて。6点の大量得点もこれが初めてだった。

 横浜Fはホームタウンの横浜市以外に、長崎県、熊本県、鹿児島県を「特別活動地域」としており、レッズも93年と94年は、アウェイ戦の1回を鹿児島県で行っている。横浜Fの前身が全日空サッカー部であり、出資会社にもなっていたことから、飛行機の利用を促す目的もあったのではないかと思われるが、Jリーグ、サッカーの普及という意義もあっただろう。
 ただ、チームにとってはホームゲームなのに九州まで行っていたわけで、横浜Fの九州でのホームゲームの勝率はどうだったのだろう。その調査はこの回の本旨ではないので、さておく。

 この試合、6-0という大量点だが、相手が1人少なくなってこんなに取ったわけではない。いや、1人退場にはなっているが、それは試合終盤になってからで、5点までは11人対11人のときに入ったのだ。
 前半はCKからの相手のオウンゴールによる1点だけだった。しかし55分に岡野雅行が出場してから前線の動きが活発になり、62分、66分、75分、77分と続けさまに得点。完全に流れをつかんだ。5-0になってからは少し試合が落ち着いたが、横浜Fの選手たちの心はだいぶささくれ立っていたに違いない。調べてみると、それまで1-5の敗戦は一度あるが、1点も取れずに5失点という試合は横浜Fになかった。

 そのすさんだ気持ちが行動になって表われてしまったのが最後の退場だ。 89分に、ドリブルでエリア内に進入した福田正博が相手GKに倒され、PKを獲得した。横浜FのGK、森敦彦はこれに不満を示し、異議で警告を受けた。しかし気持ちが収まらなかったのだろう。森は主審の梅本博之さんとすれ違うときに、左肩をぶつけた。僕はほぼ目の前で見ていたが、高校時代、街のチンピラにやられたことがある、明らかに意識した行為だった。それで森は一発退場処分になった。  PKはまだ残っていたが、GKが退場で横浜Fは3人の交代を終えていたから、控えGKを入れることができなかった。やむなくDFの高田昌明がGKのユニフォームを着てゴールマウスに立った。PKを蹴った福田は逆にやりにくかったのではないかと思うが、そこはPK職人。斟酌なしでしっかり決めた。これで6-0。レッズはそれまで4得点は何度かあったが、5点を飛び越えてチームの最多得点記録を更新した。横浜Fの当時最多失点記録でもあった。

 この日、お盆休みにもかかることから、多くのレッズサポーターが会場を訪れた。
 試合前にザワザワしているから、どうしたのか聞くと、今日は太鼓がない、という。
 太鼓というよりドラムセットのようなものが応援の中心のようになっているチームもあるが、レッズはそうではない。太鼓はチャントの開始や終わりを示し、リズムを保つのに必要だが、なければ応援ができないわけではないだろう。
 もしかしたら、これが最初だったかもしれないが、レッズサポーターは太鼓なしでこの日の応援をやり遂げた。試合中、トラメガによる「ダダン・ダ・ダンダン!」と口三味線ならぬ“口太鼓”が聞こえていた。

 さて、みなさんは1995年8月12日、何をして何を感じていましたか?

【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。

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