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3月30日(1996年)鬼門スタジアム初勝利で“破竹”の4連勝

 1996年年3月30日(土)。浦和レッズはジュビロ磐田スタジアム(現ヤマハスタジアム)に乗り込み、ジュビロ磐田とJリーグ第4節を行った。

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過去4戦未勝利の磐田スタジアム

 ジュビロ磐田はJリーグスタートより1年遅れの1994年に昇格したチーム。レッズは、前年までの2シーズンでリーグ戦3勝5敗とやや分が悪いくらいの関係だったが、アウェイの磐田スタジアムでは4戦全敗と惨憺たる成績だった。当時の鬼門と言ってよかった。
 僕の個人的な思い出としては、磐田の昇格前の93年、ヤマザキナビスコカップで対戦したときの記憶がいまだに拭えない。磐田スタジアムではなく静岡県営浜松球技場でのアウェイで、当時JFL(Jリーグ準会員)の磐田に大敗したこともさることながら、試合の終盤、磐田サポーターがこうヤジを飛ばしたのだ。

「お前ら、こんなチームに3点しか取れねえのかよ」

 その時点でのスコアは0-3。磐田へのヤジではあるが、レッズに対する痛烈な嫌味だった。
 ただ、レッズはそう言われても仕方のないひどい出来だった。ミスの連続で、相手がどこであろうと勝てる気がしなかった。そして、この“叱咤激励”の甲斐があったのか、磐田は最後に4点目を決めて試合を仕上げた。

1-1から長時間守り抜きPK戦へ

 そんなトラウマ的なものもあるアウェイの磐田戦だったが、この96年は違った。
「3月16日(ホーム柏戦)」と「3月20日(アウェイ福岡戦)」でも書いたように開幕戦から連勝し、第3節のホーム(国立)横浜マリノス戦も2-0の快勝。チーム新記録となる開幕3連勝でこの磐田に乗り込んでいたのだ。エースの福田正博はまだ欠場が続いていたが、守備の要ギド・ブッフバルトは復帰しベンチに入っていた。
 試合は磐田が先制し、レッズが追い付くという流れで始まり、その後は磐田が攻撃し、レッズが守るという展開だった。その中で1-1のまま、福岡戦に続き早くもシーズン2度目の延長に突入すると、延長前後半でレッズのシュートはゼロ。30分間守り切った格好だった。
 そしてシーズン初のPK戦に入ると、先蹴りの磐田はなんと2人目キッカーのドゥンガが失敗。さらに4人目の久藤清一も外してレッズが王手をかけたが、レッズも4人目の山田暢久が失敗。まさか、というムードも流れたが5人目の池田伸康がしっかり決めて5対3でPK戦を制し、初めて磐田スタジアムで勝利したのだった。

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120分戦って交代は一度のみ

 それまでレッズのリーグ戦連勝記録は95年1stステージの6連勝が最多だった。だが開幕からの4連勝は、当時のレッズとしては「破竹の」という枕詞を付けたいほどだった。しかも、福田、ギドを欠いての勝利なのだから。
 ところが、そこに問題があった。
 ケガを治したギドは、磐田戦で復帰したにもかかわらず、出場がなかった。
 当時のオジェック監督にしてみれば、3連勝しているのだから先発メンバーを替えたくなかっただろうし、事実この4試合の先発はすべて同じだった。また後半以降は、ほぼ守りの展開で、何とか無失点を続けているのだから守備の選手を交代して流れを変えることも憚られたのかもしれない。

ベンチで終わったギドの心情は

 だがギドは、この後の試合で出場したとき、「自分はベンチに座っている選手ではない」とコメントしたように、出られる状態であったのに、ベンチスタートということが不満だったし、さらに延長になっても出番がなく試合が終わってしまった。しかもこの試合の交代は1人だけ。交代枠には余裕があったのに出場機会を与えられなかったことに、元ドイツ代表のプライドは大きく傷つけられただろう。
 オジェックとギドは同じドイツ人だが、いや同じドイツ人だからこそ確執があったと言われている。それが、このときの起用をめぐって大きくなったのではないか、と思っている。

 ちなみにこのときの連勝は、次の第5節まで続くのだが、その試合がまたギドの意地が爆発する。その日がこの投稿にチョイスされるかどうか。自転車操業なので、まだわからない(笑)。
 
 さて、みなさんは1996年年3月30日、何をして何を感じていましたか?

※【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。


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