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6月5日(2011年) リーグ戦で勝てない中、光明に思えたナビスコ杯勝利

リーグ戦は1勝のみで14位

 2011年6月5日(日)、浦和レッズは埼玉スタジアムにモンテディオ山形を迎えて、ヤマザキナビスコカップ1回戦の第1戦を行い、2-0で勝利した。東日本大震災により中断したJリーグの再開初戦こそ快勝したが、次のアウェイ仙台戦で負けてから6試合勝ちがない中、公式戦で久しぶりの勝利は今後への光明…、に見えた。

MDPから

 2011年の残留争いの背景を論じていると長くなる。とにかく、ゼリコ・ペトロヴィッチ監督が志向するサッカーで結果を出すのは、当時のレッズには難しかった、と言えばいいのだろうか。人もボールも動くサッカーを2シーズンやり、その過程で主力選手が何人かチームを離れた後で、連動よりも個人の力を重視するサッカーに切り替わったのだから、簡単ではなかっただろう。

 リーグ戦は4月29日の仙台戦から3連敗。そのあと、ホームが3試合続いたがいずれも引き分け。1-1、2-2、1-1と点は取れているが失点もするという試合が続いていた。
 リーグ戦で8試合を終えて14位というのは、2000年代になって最も低い順位と言ってよく、サポーターが危機感を覚えるには十分だった。
 しかし大震災のあと、組み直された日程ではチームを立て直すための長いブレイクはなく、ブラジルで言う「走りながら車のタイヤを交換する」しかなかった(この表現はオリヴェイラ監督に教えてもらった)。

完封で公式戦7試合ぶり勝利

 大会が替わる、このナビスコ杯初戦を良いきっかけにしたかった。
 ナビスコ杯も大会が全部ノックアウト方式に組み直され、1回戦と2回戦がホーム&アウェイの2試合制、準決勝から決勝までが1試合制という変則的なレギュレーションだった。しかも1回戦は、この6月5日に第1戦が行われた後、第2戦は7月27日と1か月半もインターバルがある不思議な日程だった。

 ペトロ監督は、先発をほとんどいじらなかった。センターバックのスピラノビッチがオーストラリア代表に招集されたので、そこへは山田暢久を入れた。そしてGKを山岸範宏から加藤順大に替えた。それだけだった。加藤はシーズン公式戦初出場。

 スタンドにはもっとゴールを求めるダンマクが出された。
 試合はレッズのペースで始まり、何度かチャンスを作った後、前半の終了近くに得たPKをエジミウソンが決めて先制した。

 後半もレッズの攻勢は続くが、シュートがバーを叩いたりGKにセーブされたりと2点目が取れない中、加藤が山形の決定機を好セーブし同点のピンチを切りぬけた。すると終了間際、左サイドからエリア内に進入した原口元気がシュート。ボールはDFに当たってコースが変わりファーサイドのネットを揺らした。

左から切れ込んで込んで右足シュート、原口の十八番だ

ここからの躍進を予感させたが

 4月29日以来の勝利。しかも完封勝ち。加藤のセーブが試合の行方を左右したと言ってもよかった。
 勝利のあとで「We are Diamonds」を歌うのも久しぶりだった。

 誰もがここからの躍進を予感した。
 たしかに、ナビスコカップではこの初戦を皮切りに快進撃を遂げる。
 また加藤もこの試合をきっかけにリーグ戦でも先発の位置を手に入れた。
 しかしリーグ戦の順位に関しては、思うように上がって行かなかった。それについては、また書く機会があるはずだ。書かなければ浦和レッズの30年を語ることにならない。

 さて、みなさんは2011年6月5日、何をして何を感じていましたか?

※この内容はYouTube「清尾淳のレッズ話」でも発信しています。映像はありませんが、“ながら聞き”には最適です。
【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。


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