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8月2日(2003年) 足跡を振り返って、どちらへ進んでいるかを確かめる

 7位→12位→11位→8位→6位…。
 これはレッズのリーグ戦順位の変化を表わしたものですが、どの時期のものでしょうか?

 もし僕がこういう問題を出されたとしたら、きっと意地でもギブアップしないだろう。でも果たしてわかるかどうか。
 答えは、2001年1stステージ7位、同2ndステージ12位、2002年1stステージ11位、同2ndステージ8位、2003年1stステージ6位。つまり「J2からJ1に復帰して以降のステージごとの順位」が正解だ。

 2003年8月2日(土)、浦和レッズは国立競技場に乗り込んで、ジェフユナイテッド市原とJ1リーグ1stステージ第15節(最終節)を行い、2-1で勝利した。これでレッズは1stステージを6位で終了。2001年、J1に復帰以来、最高位だった。

 2000年11月19日、J1復帰を決めてから2001年の開幕までの気持ち。たとえて言うなら、浪人生活の1年間を終えて大学に合格し、入学までの1か月ちょっとの間の心持ちに似ていたかもしれない。「やったるでぇー!」と。

 しかし、そんなに簡単にはいかず、2001年の後半は残留さえ危うく感じるほどだった。
 2001シーズン終了後に強化体制が一新され、森孝慈GMが「まず大関になろう」とオフト監督を招聘し、「3年計画」で土台からのチーム作りに取り組んでから、少しずつ形にできてきて、成績もそれにつれてゆっくりした歩みだが、右肩上がりになってきた。クラブ自身が「3年も待てない」と途中から「大量の大型補強で強くする」路線に変更してしまったので、この右肩上がりの先がどこに着地したのか、今となってはわからない。

 この日の相手、市原は第14節を終えて首位と勝ち点2差の3位。この最終節に勝って、首位と2位が引き分け以下ならステージ優勝が決まるという状況だった。もちろん高いモチベーションだったはずだが、レッズは負けていなかった。市原はスタジアムのチョイスを誤ったかもしれない。1stステージ、本来のホームスタジアム市原臨海競技場で開催したホームゲームの入場者は最多でも9千人足らず。この国立に押し寄せた2万9千人のうち、レッズのファン・サポーターは控えめに見ても半数以上だっただろう。

 レッズは、加入3年目でチームにフィットしたエメルソンが前後半1点ずつを挙げて、試合を優勢に進め、反撃を終盤の1点に抑えた。最終節に勝利して、J1復帰後初めてステージ6位にはなったが、当時は16チーム体制だったから、まだ「上位」と言える位置ではなかった。
 ただ足跡を振り返ってみると、冒頭で書いたように確実に上がっていることは間違いなかった。そして、その向上の流れに乗って、この年の11月3日に、Jリーグカップではあるが初タイトルを獲得したのだった。

 さて、みなさんは2003年8月2日、何をして何を感じていましたか?

【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。

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