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4月22日(1995年) 4連勝を期待して行った広島で見たものは

 1995年4月22日(土)、浦和レッズはアウェイの広島ビッグアーチでサンフレッチェ広島とJリーグ1stステージ第10節を行い、1-1の末、PK戦で敗れた。その前の節までチーム初の3連勝をしており、連勝を伸ばすことを期待して僕も病気療養中に広島まで行ったのだが、それはかなわなかった。

 どうも1995年のことを書く機会が多い。
 この4月22日は他に2シーズンしか試合日になっていない、ということもあるが、書くべきことがあるから書いている。

4連勝があるかもしれない

 まず広島に行った理由は冒頭にも書いたがチームがどこまで連勝を伸ばせるかということがあった。3連勝で大騒ぎするのも悔しいが、それほど前年までは勝てなかったのだ。
 当たり前だが、3連勝したときでなければ4連勝の可能性はない。そのめったに起こりえないことが実現するかもしれないのに、試合に行かないわけにはいかない。
 と、まるでサポーターのような物言いだが、何度も書いているように僕はこのころ病気療養中で仕事を休んでいたから、広島にはもちろん自費で往復し、チケットを買ってスタジアムに入った。

またPK戦で負けたか

 覚えていることは多くない。
 まず試合のことは、先制されてウーベ・バインのゴールで追い付いたことと、PK戦で負けたということしか記憶にない。記録を見ると田口禎則と堀孝史が外したとなっている。この年、ここまで延長に入ったら2回Vゴール勝ちしていたが、PK戦まで行ったら2回とも負けている。

赤のデカ旗ができていた

もう一つは、いつのまにか赤のデカ旗ができていたこと。
 白のデカ旗が3月22日のホーム開幕戦で初登場したことは「あの日」に書いた。それから僕はスタジアムから離れたのだが、その1か月の間に赤バージョンも作ってしまったのか。今回はまったく製作過程を知らなかったので、いきなりだった。

広島がビッグアーチの空きスペースをジャンボフラッグで埋めるのは、これがヒントだったか?

 ビッグアーチでも、その大きさがわかるデカ旗。それが2本もあるレッズ。いやレッズサポーター。すごいと感じた。この日出たのは赤だけだったが。

 たとえが良くないかしれないが、当時の日本では、少なくとも幅50メートルというのは一番大きな旗だったはずで、つまりは戦艦大和と武蔵みたいな存在に思えた。呉が近かったからだろうか。でも大和ミュージアムは当時まだなかった。

17番のユニフォーム旗も

 そして、あれ? 何この旗。いや旗というのか、これ。
 巨大なユニフォームがスタンドを覆った。そして背番号は「17」。じゅうななぁ?
 わからないことだらけだった。これだから、おちおち休んでいられないんだ。これが3つ目の記憶だ。

 あとで聞いた話だが、白のデカ旗に「COMPAQ」の文字が入っていたことに、デカ旗製作の材料を提供したCOMPAQが感激して、今度はCOMPAQが製作してサポーターにプレゼントしたらしい。だからこれは人海戦術で作ったものではない。
 そして「サポーターは12番目の選手」と呼ばれ、「12」はサポーターの番号という考えが多かったが、当時、試合のメンバーは1番から16番を付ける決まりになっていたから、12番はベンチスタートの誰かが付けていた。試合のメンバーが16人であることを考えたら、サポーターを象徴するのは「17」だろう、ということで背番号17のジャンボユニフォームができたということだった。これは、当時レッズのスタッフだった藤口光紀さんの発想だったらしい。

 レッズの4連勝は見られなかったが、多くのことを経験できた広島遠征だった。ちなみに新幹線で行った記憶はボヤッとあるが、駅からスタジアムまでどうやって行ったのかまるで記憶がない。まだ20分も歩くのは無理だったはずだし、アストラムラインの切符を買うのも難しかっただろうから、タクシーだったのかもしれない。荷物も大してないのに何と贅沢な。
 帰りは? わからない。赤バスに乗せてもらったのかな。

 さて、みなさんは1995年4月22日、何をして何を感じていましたか?

※この内容はYouTube「清尾淳のレッズ話」でも発信しています。映像はありませんが、“ながら聞き”には最適です。
【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。


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