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5月8日(1999年) 好調の磐田に必死に食い下がるも最後は力負け

1999年、転機になりそうだった試合

 J2降格という、浦和レッズ30年の中でも特に悔しい、そしてもしかしたら後の教訓になっているかもしれない出来事があった1999シーズン。当然ながら降格か残留かの分かれ道になったようなポイントがいくつかあった。
 その中で今日は、記憶に強く残る試合でターニングポイントになるかと思われたが、そこまでの転機にはならなかった試合のことを取り上げる。

 1999年5月8日(土)、浦和レッズはアウェイのヤマハスタジアムで、ジュビロ磐田とJリーグ1st第12節を行い、3-4で敗れた。出場経験の少ない選手たちが奮闘し、当時絶好調だった磐田に最後まで食い下がった試合で、次につながる内容だった。

苦しい状況で前々年王者の磐田と対戦

 それまで2勝4分け5敗と苦しんでいたレッズだが、この第12節は特に厳しい条件が重なっていた。エース福田正博をはじめ攻撃陣の多くにケガ人が出ていたこと、第7節から5試合で1分け4敗という悪い流れが続いている中で、第11節のホームセレッソ大阪戦から立て直す余裕がない中2日でアウェイ戦に臨んだということ、そして相手の磐田が絶好調の時期だったということも大きかった。

 磐田は1997年に初めて年間優勝。98年も1stステージを制したがチャンピオンシップで鹿島に敗れ、この1999シーズンで王者奪還を狙っていた。1stステージはここまで8勝1敗。後にACLに統合されるアジアクラブ選手権に出場していたため、他のチームより2試合少なくて首位に勝点1差の2位だった。ステージ優勝に向けてばく進中の相手にケガで戦力ダウンのレッズが立ち向かった試合だったのだ。

宮沢克行がプロ初出場

先発メンバーを見ると、2トップは共にルーキーの盛田剛平と宮沢克行。特に宮沢はこれがプロデビュー戦だった。センターバックにシーズン2度目の先発となる渡辺敦夫。左サイドバックには97年の最終節以来の出場となる内舘秀樹。ベンチにはこの年レッズユースから昇格した高橋厳一が初めて入った。

宮沢克行(右)と桜井直人

 試合は磐田に前半2点を先行される最悪の展開だったが、そこから後半出場した選手たちが自分の持ち味を発揮することで踏ん張りを見せた。まずシーズン3度目の途中出場となった桜井直人が得意のドリブルで敵陣を切り裂いてチャンスを作った。また池田伸康は59分に出場して63分にゴールする。1点を返したが、71分に磐田に3点目を奪われた。

突き放されても同点にする粘り

 追い上げて良い流れとなったときに、突き放されるのは脱力感を味わうものだが、2分後に宮沢がゴールし、再び1点差。さらにその2分後、相手のオウンゴールでついに3-3に追い付いた。その直後にまたも勝ち越されるが、今度は「行ける!」という気持ちしか感じなかった。
 残り15分とアディショナルタイム。レッズは全員が闘志あふれるプレーで戦った。終盤はルーキー高橋も出場した。ユース出身選手の公式戦出場はこの高橋が初めてで、短い時間だったが記録に残っている。

 試合は3-4のまま終了した。81分にセンターバックのザッペッラが退場になり、数的不利になったこともあったが、追い付かれても慌てずしっかり勝ち越し点を取るという磐田の戦いぶりが印象的で、力負けの感は拭えなかった。
 しかし、出場経験の少ない選手たちの奮闘ぶりや、最後まであきらめない戦いを見せた選手たちに、ゴール裏のサポーターからは大きな拍手が送られた。

バックスタンドにもこのとおり(1999年5月8日)

あのファイトを続けられていたら

 負けはしたが、このシーズン、調子を上げていくきっかけになっていくべき試合だった。実際、次の第13節、鹿島アントラーズ戦はホーム国立で相手を完封し、小野伸二の直接FK一発でシーズン3勝目を挙げる快挙を達成したのだ。
 だが、それは長く続かず第14節から連敗で1stステージを終える。特に第15節はアウェイで名古屋グランパスエイトに1-8という歴史的大敗を喫してしまう。どうしてあの磐田戦の闘志を持ち続けられないのか、と憤慨した覚えがある。

 さて、みなさんは1999年5月8日、何をして何を感じていましたか?

※この内容はYouTube「清尾淳のレッズ話」でも発信しています。映像はありませんが、“ながら聞き”には最適です。
【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。


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