見出し画像

7月17日(2011年) 何とかせにゃあいかん

 筆が進まない、というのは仕事柄許されないことだ。一応、昨日の清水戦から帰宅したのが午前2時半だったから、目覚めたのが9時だった、という言い訳をしておく。だが、嬉々として書きたい日ではないことも本当だ。記録しておかなければならないことも事実だが。

 2011年7月17日(日)、浦和レッズはエコパスタジアムに乗り込み、ジュビロ磐田とJ1リーグ第5節を行い、1-1で引き分けた。7月に第5節、というのは、日程が組み直された2011年だったからだ。

 2011年。言うまでもなく、日本にとって重大な、しかも深刻な問題が今も解決していない大災害と大事故が起こった年だ。もちろん浦和レッズもその影響を受けた。
 と同時に、レッズにとってそれに匹敵するレベルの衝撃があった年だった。

 僕はエコパに向かう新幹線の中で携帯にメールを受けた。

 森孝慈さんが、本日亡くなられました――

 デッキに出て発信元に電話した。疑ったわけではない。森さんが病気だったことは知っていた。だが、確かめずにはいられなかった。
 現実だった。
 一瞬、次の駅で降りて引き返すことを考えた。それに何かの意味があるなら、そうしたかもしれない。別に自分がエコパに居なくても試合には何の影響もない。
 
 現実に立ち戻った。自分がやるべき仕事をしっかりすること。少しでも浦和レッズのプラスになるような活動をすること。それが生前の森さんのご厚誼におこたえすることになるはずだ。

 そのころ、別のクラブスタッフからもメールが入ってきた。

 残念です。今日、勝ちましょう。

 そうだ。今日はは絶対に勝たなくてはならない。試合の写真を撮りながら、レッズが得点するように、失点しないように、勝つように、念じよう。
 今度はエコパに着くのが待ちきれなくなった。

 試合は柏木のゴールで先制したが、1-0で勝利する寸前、アディショナルタイムに相手にPKを与えてしまい、同点ゴールを決められた。
 この引き分けの悔しさはいつ以来だったろう。1999年11月23日のヴェルディ川崎戦か? それとは次元が違うか。勝ち点とか順位の問題ではなく、この試合は勝ちたかった。なんで、あの時間に失点する。

 これが今の浦和レッズじゃろう。それを何とかせにゃあいかん。

 森さんならこう言うだろうか。

 そう、この日から僕は「森さんならどう言うか、どうするか」を考える癖ができたと思う。

 さて、みなさんは2011年7月17日、何をして何を感じていましたか?

【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?