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#11 東セルビアを訪ねて【前編】

セルビア、ベオグラード在住の詩人・翻訳家、山崎佳代子さんの連載。歴史や詩、そして山崎さんの出会う人々とともに、ドナウの支流をたどる小さな旅。今回の舞台は東セルビアです。

 ティモック川は全長203キロメートル、セルビアではドナウ河の右岸の最後の支流だ。カルパチア・バルカン山系の山々を源流とする無数の流れを集め、籠を編むように水系を成す。スブルリシキ・ティモック川とトルゴビシキ・ティモック川がクニャジェバッツで合流して、ベーリ・ティモック川となり、ザエチャルのあたりでツルニ・ティモック川と合わさってティモック川が生まれ、ドナウ河へ注ぎこむ。最後の15キロメートルの対岸は、ブルガリア領だ。深さ50センチメートルから150センチメートルと浅く、川幅も最大30メートル、蛇行しながら鄙びた情景を紡ぐ。ティモック水系の盆地は鉱物が豊かで、かつて金鉱があり銅も採掘された。ベーリは白、ツルニは黒。白は平野を流れ、黒は森を流れる。流域は1世紀ころローマ人が定住し、ローマ帝国モエシア・スペリオル属州、後にダキア・リペンシス属州の版図にあった。ローマ帝国の要塞や軍営都市の遺跡が、今も点在する。なかでもガムジグラード村のフェリックス・ロムリア―ナはユネスコの世界遺産、ローマ帝国の宮廷の史跡として名高い。
 あの夏、ニーシュを起点に東セルビアを旅した。遺跡に詳しい建築家シーマの案内、妻のゴーガ、詩人スターナと夫のスロボダンも一緒だ。3日間は、古代への旅だった。バスで、夕暮れのニーシュに着く。ホテルは、商家だった趣のある建物だ。その晩は、シーマ夫妻の家で夕食。庭に蝋燭が灯され、ゴーガが左手に杖を持ち、右手でお盆にアイスクリームをのせて現れる。腰を傷めたのだが、立ち姿が美しい。トルコ石の首飾りの青が、金髪に似合う。テーブルの大皿に焼肉が盛られ、夏野菜が鮮やか。サラダは最高、とスターナ。「モラバ・サラダよ。パプリカ、ズッキーニ、ナスを焼いて皮をむき、トマトも皮をむく。細かく刻み、塩と酢油で味付け。祖母の味ね」とゴーガ。グラスのワインに炎が揺れ、陽気な声が混ざる。星空に果樹が香り、時はゆったり流れた。
 翌朝は快晴。私はシーマ夫妻の車に乗り、後をスターナ夫妻の車が走る。ニシャバ川の流れにそって田舎町を抜け、自動車道に入りクニャジェバッツへ向かった。カーステレオからレノンのスタンド・バイ・ミーが流れる。「右手はニシカ・バニャ、ラジウム温泉、ローマ帝国時代の貴族の保養地だ。ここから南へ、約45キロメートルのスーバ・プラニーナ山脈が伸びる。最高峰は1810メートル、冬は雪が深い。ここはニシャバ盆地、これからティモック盆地だ」とシーマ。
 スブルリック村を通過する。土地は石灰岩を含み、葡萄の栽培に適している。羊の群が通った。果樹園が朽ちていく。「ドライナッツ村だ。老人ばかり、過疎の村だ。自然は厳しく、9月から朝の霧が深い……」とシーマ。やがてクネジェバッツに入る。「この町は、ニーシュより早く、1830年にはオスマン帝国から解放されて栄えた。小パリと呼ばれ、ここを訪れたフランスの建築家ル・コルビュジエが、美しい町だと言った。戦後は工業都市、トラクター工場、靴工場、煉瓦工場があった」とシーマ。社会主義時代のモダンな集合住宅は、ひっそりしている。細い道に入ると、ゴーガが窓の外を指さして言った。「これは英雄の並木道、第1次大戦のとき、町から出兵して戦死した人の数だけ、栗の木が植えられた。今も6本残っている」と。
 ラブナ村に出た。ローマ帝国最古の軍営都市ティマクム・ミヌスの遺跡に向かう。煉瓦の家の庭に雑草がおい繁り、静かだ。大きなヘッドフォンの少年が、畑を横切っていく。道に「鹿に注意」の標識、梨の木に実が光る。
 博物館の建物は、1906年から1960年まで小学校だった。門の横に、アイスクリームの空き箱が置かれ、猫が水を飲んでいる。館長はアーツァという若い男で、見学者は私たちだけ。アーツァが語る。「ティマクム・ミヌスは、1世紀にベーリ・ティモック川の岸辺にローマ帝国が造った属州最古の軍営都市、縦112メートル、横144メートル、面積約2ヘクタール。2世紀のプトレマイオスの中央バルカン地図にも登場し、タブラ・ペウティンゲリアナという4世紀の道路地図(Tabula Peutingeriana)にも記されています。1899年と1902年の発掘調査で、大理石のディオニスの像が出土。本格的な調査は1976年から……」。


ティマクム・ミヌス博物館(撮影:Zavičajni muzej Knjaževac)

 庭にラピダリウムがある。「搭は木造だったが、3世紀にゴート族の攻撃があり、要塞は石で造られ堅固になる。大理石や砂岩ブロックを使ったが、建材不足で2世紀の墓石も使われた」とシーマ。新しい戦争が、死者の眠りを断った。軍人と妻と三人の子供、壺と葡萄を描いた墓標に見入る。家族という言葉を想った。陽ざしが強い。私たちは、先を急いだ。


フェリックス・ロムリア―ナ

 ガムジグラードはスラブ語の地名で、グラードは要塞や町のこと。ガムジとは、蛇が「這う」という動詞の古い形だ。この村にフェリックス・ロムリア―ナが発見されたのは20世紀後半、つい昨日のこと。ガムジグラードにスラブ系の民族が定住するのは7世紀、住居は竪穴式の泥の家だった。11世紀以降、集落は消滅する。砦の廃墟が注目されるのは、19世紀に入ってからだ。1835年にザクセンの地質学者ヘルダーが著書で言及、1860年と64年には紀行家カニッツがここを訪れて細密画を残す。発掘は1950年に始まるが、軍営都市か、宮廷かは謎で、都市の名も謎だった。1954年版の『ユーゴスラビア百科事典』には、ガムジグラードの古代都市の名は不明とある。
 1970年から1996年の間に、考古学者スレヨビッチ教授が本格的な調査を行い、謎は次々に解明される。ロムリア―ナの象徴である白い円柱や大理石の噴水が発掘され、気品あるモザイクの床、壁画、柱の装飾、レリーフが出土されて、華麗な古代都市が姿を現した。1972年は北部に巨大な神殿が、数年後には南部の神殿が発見された。スレヨビッチ教授は、出土品や地理的な条件から、軍営都市ではなく宮廷で、ガレリウス帝が建立して母の名ロムラを冠したフェリックス・ロムリア―ナだとの仮説を立てる。反論もあったが、ここは軍事的に重要な場所ではないから軍営都市ではないと教授は主張した。村はローマ街道、ビア・ミリタリスから外れている。


(撮影:Dobrila Lukić ドブリラ・ルキッチ)


 1984年、謎が解けた。南西部、モザイクの床や壁画に混じって、大きな円形の石板が出土、FELIX ROMULIANAの文字が刻まれていた。ロムリア―ナは、アドリア海の都市、スプリットにあるディオクレティアヌス帝の宮廷と同じ建築様式で、古代後期の建築美術の頂点を示す。こうして世界の考古学に、フェリックス・ロムリア―ナは位置づけられた。1986年版の『ユーゴスラビア百科事典』では、都市の名が記され、ガレリウス帝の宮廷だと明記された……。

(撮影:Dobrila Lukić ドブリラ・ルキッチ)

 車道を左に折れ、田舎道をツルニ・ティモック川に沿って11キロメートル走ると、ガムジグラードだ。広大な草地に、巨大な門が現れる。「ガレリウスの母ロムラはこの土地の出身、ガレリウスもこの地の生まれだ。羊飼いだったが軍人として名を成し、ローマ帝国のテトラルキアの時代、つまり四分治制の時代に、ディオクレティアヌス帝に見出されて副帝となり、後に正帝となった。298年に対ペルシャ戦争で勝利をおさめ、ローマ帝国の領土を拡大したガレリウス帝は、故郷に宮殿を築き、余生を過ごそうとした……」とシーマ。
 駐車場に観光バスが並び、団体客が目立つ。太陽は眩しい。車を停める。スロボダンは汗でびっしょりのTシャツを着替え、スターナはサングラスを取り出す。高さ20メートルもの門をくぐると、青空のもとに白の大理石の柱が何本もそびえ、優雅な古代都市が現れる。高校生や外国人、店で記念品やプレゼントを選ぶ人々……。暑いから木陰で待つ、とスターナたちはベンチで休んでいる。私だけ、ここが初めてだ。
 シーマの案内で、遺跡を歩く。観光案内の掲示板があった。宮廷は約4ヘクタール、最初の要塞は八角形の搭で、高さ4メートル半。後の20の要塞は巨大な円筒型で、直径23メートルから28メートル、高さは8メートルと20メートルの2種類、厚さは3メートル60センチある。ずいぶん高い。多くの奴隷が働いたはずだ。門には、葡萄の実と蔓、雉、月桂樹をくわえた鷹が描かれている。
 「フェリックス・ロムリア―ナは、298年にガレリウス帝の対ペルシャ戦における勝利と関係が深い。自らの栄光をたたえ、「私は神だ」というコンセプションで宮廷都市を築き、皇帝の権威を堅固にした。あの丘をごらん」と、シーマは東の小高い丘を指さす。一キロメートルほど先、マグラ丘だ。煉瓦と石を積んだ円形の遺跡が、左右に並ぶ。「マグラ丘はね、ローマ帝国時代以前から聖なる丘だった。左は母ロムラの霊廟、右はガレリウス帝の霊廟だ。古代ローマ帝国には、皇帝を葬るアポテオーズという儀式があった。丘に薪を組み、死者を象った蝋人形を置く。松明で火を放つと、蝋人形は溶けて煙となって天に向かう。天空と地上が交わる儀式。死者の魂は天界へ帰り、神となるという信仰だ。この儀式は、バルカン半島ではここが最後だったらしい。ペルシャ文化の影響もあるが、戦争で勝利したガレリウス帝は、自分は神々を統率する神ジュピターの後継者だと唱え、母を女神キベーリになぞらえた。キリスト教の処女受胎の信仰も混ざる。ガレリウス帝は、母ロムラが戦争の神マルスと結ばれて自分が誕生したとして、自分を神格化した。母と皇帝の関係は、聖母マリアとキリストの関係を想わせるがね、ローマ帝国では、皇帝が自分の父について語るのはタブーだったらしい。ふたつの霊廟は、母ロムラが地上の宮廷を治め、皇帝は全世界を治めるという思想を具現している。コンスタンティヌス大帝の時代からキリスト教が広まり、多神教の儀式は消えた……」とシーマ。澄みわたった空に、皇帝と母の魂を探した。
 「霊廟の傍らは、テトラパイロンの史跡、四つの柱の記念碑だ。4本の柱は4人の支配者を表わし、二人の正帝と二人の副帝、四分統治のイデオロギーの視覚化だね……」タンポポの綿毛が飛んでいく。女の子が追いかける。「町の左手が皇帝の住む宮殿で、右手が神殿だ。母ロムラの霊廟は地上界、すなわち宮殿を見守り、ガレリウス帝の霊廟は神として天界から神殿を見守る。今、僕たちが立っているのは、宮殿のトリクリニウム、生活の中心となる空間だ」と、シーマ。絨毯を模したモザイクの床は、淡い珊瑚色が美しい。異国の高価な石を贅沢に使った。眼には見えない壁や天井や回廊に、想いを馳せる。ここは大陸性気候、夏の気温は40度以上、冬はマイナス20度以下。厳しい気候条件からモザイクを保護するため布で覆ったり、冬は砂をかけたりするという。神殿の跡には、広い荘厳な階段が続く……。
 ディオクレティアヌス帝が退位した305年、ガレリウスは副帝から正帝となる。だが311年5月、ガレリウス帝はソフィアで病死。51歳だった。ディオクレティアヌス帝に従ってキリスト教を迫害した彼は、死期が近づく4月にキリスト教を寛容する勅令を出す……。
 樫の木陰で、男の子と女の子が、無心で携帯電話を操作している。スターナたちと展示館に入った。ディオニュソスのモザイクは、香り立つようだ。床のモザイクには、6角形の迷路が描かれていた。ガレリウス帝の彫像は、頭部と左手が出土。エジプト産の赤の斑岩は、硬質で高貴な石だ。ずんぐりした顔と地球をのせた左手だけが残る。全能者の彫像は、ふたつの断片となった。人間は全能者には成りえず、不完全なのだ。303年に造られた彫像は1993年に出土、ユーゴスラビア内戦の時代だ。母の霊廟から出土した99枚の金貨がまばゆい。かまぼこ型の物体がある。床暖房のパイプだ。「ここで様々な人々が暮らした。病院、風呂、フォルム。兵士は搭に住んだ……」とシーマ。

(撮影:Dobrila Lukić ドブリラ・ルキッチ)
(撮影:Dobrila Lukić ドブリラ・ルキッチ)


 消えた都市を想い描き、遺跡を去る。シーマが言う。「遺跡が発見される前から、人々は、この村で蝋燭を灯して死者の霊を慰めた。この土地に、なにか聖なるものを感じるのだね」。午后1時半、ラヤッツ村に向かう。田舎道に、人の姿はない。かなり走ったが、道に迷ったのか。途中で、池を作っていた男に道を訊く。この道をまっすぐだ、と答える。「地図を読め、村人に訊け」とシーマが歌うように言った。森には、廃屋。踏切があり、線路を渡ると、旧い家の前で半ズボンの男が煙草をふかしている。壁に何枚も重ねるように、写真入りの死亡広告が貼ってある。ツルノマスニツァ村、黒い痣という意味の地名だ。じきに、向日葵畑がいちめんに拡がる。モクラーニェ村だ。
 でこぼこ道を行くと、とうとうラヤッツ村に出た。村の中央に教会、噴水、第二次大戦パルチザン闘争記念碑。もう15時半だ。坂道をたどると、石造りの集落、目的地のピウニツァはワイン造りの村だ。最古の家は18世紀のもの、多くは19世紀に建てられた。酒蔵でワインとチーズと生ハムが楽しめる、と聞いていた。だが集落は閑散としており、数十軒はあるはずの酒蔵で、3軒だけが開いている。窓にはクモの巣がかかり、埃っぽい。カヨ、ひとりで行っていらっしゃい、とスターナたち。酒蔵の暗い石段を降り、試飲する。店主が、タミヤニカという白ワインを出す。生ぬるく、酸味がきつい。外に出ると、ブーンと機械音。赤いスポーツカーの前に若い男女。じきに機械音は静まり、小さな物体が男の左手に納まった。ドローンだ。車は去った。ワインもチーズもなし。観光地としてはこれからだね、とスロボダン。予約する必要があったらしいが、昼食は抜きだ。日が傾き、空気が冷めていく。
 村を下りてネゴティンへ向かった。空が高くなり、微かにドナウが香る。そうだわ、市立図書館に寄りましょう、とスターナ。図書館の前で、詩人仲間のブラスタが出迎えてくれ、再会を喜び、冷たいジュースをいただく。美味しい。ネゴティンは、セルビア第1次蜂起の英雄、義賊ベリコの縁の町だ。近代音楽の祖である作曲家モクラニャツの生家もある。今日は時間がないの、とスターナ。作曲家の生家だけでも観て、とブラスタ。作曲家の部屋に、ピアノ、机、椅子、そして静けさ。歌を心で口ずさむ。日暮れが近い。駆け足で、緑に苔むした義賊ベリコの墓を訪ね、先を急ぐ。
 午后6時近く、車窓にドナウが現れた。夕映えの河に沿って走った。空に絹糸のような雲が流れ、糸杉が高い。「ブルザ・パランカ村、ここにもローマ時代の砦がある」とシーマ。「キャンプ場と水浴場もある。ドナウは力強く、危険な河よ」とゴーガ。グラボバッツ村を過ぎると、空は薔薇色に染まっていた。ドナウの水面は霧に包まれ、舟が出ていく。
 黄昏のクラドボ市に着いた。郊外のホテルに部屋をとり、シャワーを浴びる。運転は大変だったはず。夜の町に出た。旧い居酒屋で、鯰のフライ、鱚のグリル、セルビア・サラダ。ドナウ河の魚料理に、土地の白ワイン、笑い声とおしゃべり。ローマ帝国の古代都市が、美酒に沈んでいき、溶けていった。

山崎佳代子(詩人・翻訳家)
1956年生まれ、静岡市出身。1979年、サラエボ大学に留学。1981年よりベオグラードに住む。詩集に『みをはやみ』(書肆山田)、『海にいったらいい』(思潮社)など、翻訳書にダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』(東京創元社)など、エッセイ集に『ベオグラード日誌』(書肆山田)、『パンと野いちご』(勁草書房)などがある。セルビア語による詩集のほか、谷川俊太郎、白石かずこの日本語からの翻訳詩集を編む。セルビア語の研究書には、Japanska avangardna poezija(『日本アヴァンギャルド詩』)ほか、『日本語現代文法』を著わした。

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