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次郎長、危機一髪/町田康

【第35話】「海道一の親分」として明治初期に名をはせた侠客、清水次郎長。その養子であった禅僧・天田愚庵による名作『東海遊侠伝』が、町田版痛快コメディ(ときどきBL)として、現代に蘇る!! 月一回更新。
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 次郞長は槍一条を携え、興津川にかかる橋の南詰にいた。対岸に篝火が燃え、川面が紅く染まっていた。真っ暗ななかに人影が蠢くのが見えた。
「百人はいやがるな」
 次郞長はそう見当を付けた。
「こっちはたったのひとり。下手すりゃあ、殺される。へっ、おもしれえ」
 と次郞長は口に出して言ってみたが、それとは裏腹に睾丸は縮み上がり、陰茎も小さく固まって冷え切っていた。
「この俺が話をつけてくる。すまねぇが叔父貴、槍を一条貸してくんねぇ」と威勢よく、ここまでやってきたものの、いよいよ大立者の津向の文吉と対峙するとなると、途端に恐ろしくなり、逃げ出したくなった次郞長なのである。
 そんなとき後ろから、
「をいっ」
 と声を掛ける者があって次郞長は飛び上がった。
 振り返ると、そこに立っていたのは弁慶の重蔵であった。
「おどかすねぇ。ナンデイ、なんの用でえ。使いかえ」
「使いじゃねぇ。おまえばかり仲裁にいかせてなるものか。俺も行くで」
「なんだ、おまえも手柄を立てて男になりてぇって訳か」
「ま、そういうことよ」
「あ、そうかい。じゃ、一緒に行こう」
 とそうなったら弁慶の重蔵の手前、もう逃げるわけにはいかない。次郞長、先に立って歩き出すと、後ろから重蔵が言った。
「ちょっと、待てよ。すげぇじゃねぇか」
「すげぇってなにが」
「文吉の人数よ。篝火がこっちから向こうの方までずっと続いてるじゃねぇか。それとおまえ、いま見えたけど前の方にずらっと並んでるのはあれ、鉄砲じゃねぇのか」
「そうみたいだな。こっちの姿がチラと見えたら、すぐにドンと撃つ気よ。斬り合いになる前にこっちはみんな死んじまう」
「おめぇ、そこに一人で乗り込んでく気か」
「そうだよ」
「おまえはバカか、それともアホか」
「両方だ。まあ、正確に言うと気ちがいか」
「おら、よすぜ」
「怖くなったか」
「ああ、怖くなった。来る前は、ナーニ、度胸一番、伸るか反るかの大勝負、いっちょやってやろうじゃネーカと思っていたが、こりゃあ駄目だ。反るか反るか、だ。どう考えたって勝ち目はねぇ。喧嘩も博奕も引き時が肝心。悪いこと言わねぇ。俺はよすからおめぇもよせ」
 と重蔵が臆病風に吹かれるのを見た次郞長は、不思議なことに、「なら、俺はやってやる」という気になり、さっきまでは重蔵と同じ気持ちになっていたのをすっかり忘れて、
「じゃあ、てめぇはよせ。俺は一か八か、勝負するぜ。バカを承知でなったヤクザだ。おめぇはそこで見ていろ」
「ああ、わかった見ているよ」
 そう言う重蔵を振り返りもしないで次郞長は槍を担いで、そのまま進み、橋の半ばで立ち止まると、
「津向の文吉っつあんはいらっしゃいますかい。ちょっとお目にかかって話があるんですがねぇ」
 と、途轍もない大声で呼ばった。
 これを聞いた北岸の方では、今か今かと待ち受けていた敵がいよいよ来た、と言うので、
「来やがったぞ」
 と勇み立ち、そして、
「撃て、撃っちまえ」
 という声が上がった。
 そう、文吉はこの大喧嘩に際して、長脇差、槍の他、数挺の鉄砲すら持ち出していたのである。
 これを見た次郞長の睾丸が再び、縮み上がった。
「しまった。文吉の野郎、鉄砲まで持ち出していやがったか。となると」
 逃げるしかないか。でもそれはとても格好が悪い。といってこのままここにいたら確実に死ぬ。どうしようかな。逃げようかな。死のうかな。
 次郞長が葛藤しているうち、鉄砲隊は既に次郞長に狙いをつけ、いままさに引き金を引こうとしている。

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