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読書:南蛮医 アルメイダ

https://www.amazon.co.jp/南蛮医アルメイダ―戦国日本を生きぬいたポルトガル人-東野-利夫/dp/4760109080

医師免許をもった貿易商人のアルメイダは、貿易で大金を稼いだ後イエズス会に入会し、日本の貧しい病人や宣教のために財産と人生を捧げた。本の内容は主に医師としてのアルメイダや病院について詳しく書かれたもの。

唯一のアルメイダ直筆書簡だそう

大友宗麟

親交があり、最初の病院がおかれた豊後の大名・大友宗麟のことから本は始まる。宗麟の日本の資料は、宗麟が亡くなった(1587年)後の江戸時代に書かれたものが多いので、信憑性はともかく宣教師側と日本側の資料が読み比べできる。

宗麟本人は、いつもはるか後方に本陣を構えて、命を狙われた時はまっさきに城に駆け込んでいたらしい。毛利との交戦時では、いきなり行方不明になり、国中探した結果、一人であばら屋で隠れていたときもあったという。(大友記)

「2階崩れの変」で血みどろの家督争い(この事件の間、宗麟本人は湯治に出かけていた)の翌年、豊後に南蛮船がやってくる。宗麟は山口にいたザビエルを呼び出会った事で、キリスト教との関わりができていく。

府内の病院設立まで

「私はもう30歳になろうとしているのに、いまだに生活の方針が立たないで苦悩しています」

1555年、ドアルテ・ダ・ガーマの船でアルメイダが平戸に上陸。当時日本イエズス会の中心は山口で、その頃の豊後や山口は飢餓や病気で苦しんでいる人たちが多く、イエズス会は貧しい人々のために炊き出しをしたり、薬もないので聖水を与えたり祈ったりといった活動を行なっていた。

生活の方針がたたない、といっていたアルメイダだったが、嬰児殺しが多く行われていたのを見て府内に孤児院をたてることに。ミゼルコルジア(慈悲の組)が昼夜手厚い世話をするも、過労と、周りの人から「神父たちが赤子の生き血を吸っている」等悪い噂を立てられ1年で閉鎖。かわって日本で最初の西洋病院がたてられた。アルメイダは病院に財産のほとんどを費やした。

宗麟の重臣や僧侶たちは病院建設に大反対。布教長のトーレス神父も、日本語の上手なフェルナンデス修道士を何度も大友館に遣わしたという。宗麟は反対勢力に配慮しつつも、病院設立の許可を与えた。

設立はしたものの、今度は家督をついだ宗麟の暗殺未遂事件など豊後領内の情勢は不安定で、府内にいたイエズス会士たちが動けないほど治安が悪化。宗麟は城に避難していて助けを求めることはできず、みんなで病院の自衛にあたることに・・

ヴィレラ神父の1557年の書簡
「食事もはなはだにがく、死のことを考えると食物もほとんど喉を通らない日が多くなりました。わたしたちは終夜、当直を定めて自ら警備をなし、来る日も来る日も苦労を続けています・・・」

「トーレス神父はインドで出会った時は太っていて元気そうだったのに、日本にきて11年、不健康な生活を続けたためにあまりにも早く痩せ衰え衰弱して・・・このような神父さまをみていますと、全身全霊をつくしてトーレス神父のお仕事を補佐しなければならないと決心しました」

この時の回想が宣教師たちの書簡やラウレスの著書をもとに書かれていて、この部分がよかった。前回読んだロレンソの本(結城了悟氏)と微妙に内容が食い違う箇所もあるのが気になるが。モルッカ諸島で、クローブを現地住民から奪って莫大な財産を稼ぐ商人たち。ザビエルに出会ったことで人生が変わったトーレス。
みんなの反対を押し切ってインドの病院の狭い一室に寝泊まりし、病人を見舞うザビエル。命懸けの日本渡航の話などなど。。

病院で働く人とその後


その後、ようやく豊後府内も落ち着き始め1557年2月ごろから病院は軌道に乗ったと思われる。アルメイダの外科治療の評判は、病院が開設して半年で京都まで届いていたらしく、遠方からやってくる人も多くいた。2年後には増改築したりと病院は盛況していた。

アルメイダは外科治療で、内科診療(漢方療法)は日本人のパウロ・キョウゼン。
病院に来られないほどひどい人のために郊外まで往診にもでかけていたとか。もとから病気だったパウロは激務もあって1557年秋に倒れる。パウロを補佐するトーマス・内田という人もいた。そしてミゲルという日本人と2代目パウロは開院1年半後に亡くなる。(重症の感染病の治療にあたり、本人たちにもうつって亡くなったのではと本には書いてある)
他、病院をお手伝いしていた人たちは、日本で最初に亡くなった外国人修道士ドアルテ・ダ・シルヴァ、音楽の先生でもあったアイレスサンチェス、クララ夫人など。

しかし、1560年にヨーロッパのイエズス会本部から聖職者は医療に携わるなという命令が来てイエズス会士たちは病院から手をひいた。アルメイダがいなくなってから病院は衰退し、布教本部も府内から横瀬浦へうつっていく

開拓伝道師

「日本の地において、生の終りまで主(デウス)に仕えしめたまわんことを祈れ・・」1562年 アルメイダの書簡

アルメイダはその後、開拓伝道師として日本中(主に九州)を駆け回ることになる。その生涯の移動距離は21300キロ、地球半周分。

島原、長崎、五島、天草へ最初に宣教にいったのはアルメイダ。度島にはアルメイダがきた言い伝えが残っているという。畿内にいったときは、病気で倒れて堺の豪商で茶人の日比屋了慶(ディオゴ)に看病されたことも。

宗麟とアルメイダ

1569年は毛利と大友の決戦の年
大村純忠はトーレス神父に、同じキリシタン大名の宗麟が大村侵攻を中止してくれるよう哀願。アルメイダはその事を伝えるため日田に出陣中の宗麟のもとへ・・

「西からの強い風雪を受け私の顔は三日間打ち付けられるばかりでした。私は王のいる日田につくまで3日間歩き続けた」
「王は私が面会にきた目的を聞き、そんな些細なことのためにこの寒さの中、わざわざ日田まで・・・と哀れむ様子でした。私は本当に久しぶりで父母の家に帰っても受けられないような大歓迎を受けました」

(純忠からしたら些細なことではないとおもうが)こうして大友軍が大村領を
攻撃しないように根回しは成功。1577年の日向侵攻では、宗麟は病床に伏しているアルメイダをどうしても連れていくといったらしく、アルメイダも死を覚悟して同行することに。しかし大敗の知らせを聞いた宗麟は豊後へ逃走、神父たちは取り残される。2代目布教長カブラルは一頭しかいない病気の馬をアルメイダのところへやり、アルメイダは必死に馬にしがみついて命からがら逃げ出したという。

こんな状況の中、ヴァリニャーノが来日。ヴァリニャーノは今まで長い間教会に献身していたアルメイダたち4人の修道士を司祭に叙階するためマカオへ送り、ようやく司祭になって日本へ戻ったのだった。

アルメイダの最後

司祭になったアルメイダはヴァリニャーノによって天草全島の教会責任者に任ぜられた。しかし、天草の領主・天草鎮尚が病気で亡くなった後、アルメイダも1583年に天草で人々に見守られながら波乱の人生を終えた。


日本で最初の孤児院や西洋病院をたて、人々のために尽くしたアルメイダ。現在彼のお墓を探すプロジェクトもあるみたいです。アルメイダの資料がさらに発見されることを願っています。

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