ボーイズ・イン・ザ・バンド〜真夜中のパーティー〜を観た

舞台を観終わった後って、その帰り道、妙に虚しさ感じることが多い。その虚しさの原因はわからないのだけれど、わたしはその感覚が嫌いじゃない。

こんなご時世だしやめておいた方がいいかなと思い発売時は申し込みをしていなかったのですが、わたしみたいな平々凡々一般ピーポーが思っていたほどこの状況は甘くなかったようで…。
事態の収束をただ待つ、というよりも、事態の収束のためにできることをしつつ長期戦が見込まれるこの状況下でどうやって楽しみを見つけるかにシフトした方がいいかなと考えるようになりました。そんなことを思っていた矢先、感染症対策と座席変更の上チケットの再販が行われたので、思い切って申し込んでみたらなんとかチケットが取れたので鑑賞してきました。

もし今後鑑賞のご予定がある方が見てくださっているときのために、行ってみての内容以外のレポだけ先にまとめます。ネタバレあります、って書くまではネタバレはないのでご安心ください…(?)

・チケット半券に連絡先と氏名の記入が必須(会場にも消毒済みのペンは用意していただいてましたが、わたしは念のため先に書いていきました)
・入り口で靴と手の消毒
・検温あり(サーモグラフィカメラが入り口とかにあったのかな?消毒のあたりで靴裏の消毒とか慣れない作業があったので設置されてるのには気づかなかった…)
・チケットもぎりは自分でやる(係員さんが内容確認します)
・物販クレジット可(現金だけかと思って現金もっていっちゃった)
・会場は上演中も常時システムを利用した換気、開演前客席の扉だけでなく舞台の後ろの扉(?)も開けてました。(2階席だったから駐車場っぽいのがみえて、これ本番はじまってもこのままなのかなと少しソワソワした)
・座席は少なくとも一人ぶんは間空きます
・ステージ前3列目までの方にはフェイスシールド配布、着用必須
・スタッフさんは全員マスク、フェイスシールド、手袋着用。こちらから故意に触らない限り接触する機会はありません。
・びっくりするくらい消毒液あらゆるところに設置されてた
・ペットボトル(キャップ付き)の水のみ飲食可能。

覚えてる限りでこんな感じだったかな。あとコクーンに限らずですけど劇場ってかなり座席が狭いので大きい荷物はクロークに預けてくださいという気持ちだった。場所が場所だけに買い物帰りっぽい方がちょこちょこいらして、今回は席の間が広いから良かったけれど大きな買い物袋を足元というか隣の席の下とかに置いていたりしたので…。

とまあわたし他の場所にここ数ヶ月遊びに出かけていないので他と比較したりはできないのですが、感染症対策かなり徹底されている印象でした。当然か…。

あと、これいつも迷うパンフを先に読むか後に読むか問題。今回は完全にうーんという気持ち(最低な結論)。
もともと何度も再演されている舞台なのであらすじをご存知の方も多い作品なのかもしれませんが、割とあっさり後半の内容まであらすじに書かれてました。ただ、察しがよければなんとなく途中から勘付くし、どんでん返し(ってほどでもないけど)自体がこの作品の中核ではないと感じているので、うわー、読まなきゃ良かったー、とは思わなかったです。むしろとても難しい内容だったので、ある程度キャラクターのイメージとかがわかってわたしは先に読んで良かったなと思いました。


以下ネタバレもあったりするので気になる方は回れ右でお願いします。


んー、なんかあの、語彙がばかで大変恐縮ですが、すごくずしんとくる舞台でした。パンフレットで演出の白井さんが何度も「今やることに意味がある」というニュアンスのお話をされているのですが、その言葉の意味が完全にとはいかないもののわかったような気がします。結構ランダムな感想書き殴りですが、ご容赦ください。

こんな安っぽいツイートを持ち出すのは大変おこがましいのですが、ちょうど観劇の前、会場に向かう電車でこんなことを呟いてました。これは果たして偶然だったのか。謎。

「生きづらさ」はこの作品の中で常に根底に流れていたテーマと言えると思いますが、50年以上前の初演時から現代に至るまで、その生きづらさの原因は変わっていないような気がしました。

50年前は「理解されない」ということが「生きづらさ」原因だったのかもしれない。この舞台ではその対象を性的嗜好に絞って描かれていた(実際はもっと広かったわけだけど)けれど、じゃあ性的嗜好に関して、LGBTに関して理解が広がった、深まった現代ならその生きづらさは解決されているのか?と考えたら、答えはノーだと思う。そもそも「理解」という言葉はそう易々と使える言葉じゃないと思う。

LGBTはその存在が知られるようになっただけで、LGBTに関する「理解」なんて、これっぽっちも進んでいないのだ。もし世に理解されていると認識している人がいるとすれば、きっとそれは知識を得ただけで「理解した『気になっている』」人だけだと思う。そしてこれからもその理解は進まない。知ることはできるかもしれないが、理解は一生できないと思う。それは対象がLGBTだからではない。「他者」を理解することは、自分には一生かかったってできない。

他人を理解するなんておこがましいにも程がある話だと思う。

この作品には世の中でゲイという言葉で括られる人間が9人出てくるわけだけれど、実際「ゲイ」って言葉一括りになんてできなくて、それぞれに人間としての尊厳をどのような形で手に入れていくか、いきたいか、手に入れてきたか、は全然違う。結局、一人ひとりの価値観やバックボーンまで考えたら、自分じゃない誰かのことなんてわからない。同じゲイであったとしても。
それでもわかろうと努力をする、したいと思う、させて欲しいという欲望が、愛なのかもしれない。
だから、例えばLGBTに対して理解ができないから排除する、というのはもちろん間違っているし、理解した気になっているのもまた間違いであると思う。自分は相手のことを理解なんてできていないと認識した上で、それでも相手のことを理解しようと努めることが、自分にできる相手への敬意の示し方なんじゃないかな、と思った。

目に見えるもの、聞こえるものがすべてじゃない、むしろ目に見えるもの、聞こえるものなんて全部嘘かもしれない。

伝えたいことを伝えたい人に伝えるべきじゃないことは、きっとある。それは自分や誰かを守るためだと言えれば聞こえがいいかもしれない。逃げてるだけだと言われればその逆に振れるわけで。表と裏なんて結局同じことなんだろう。自分がどちらから見ているかだけで、同じことなんだよ。それがどちらを向いているか、ではなく、自分がどちらから見ているかだけの話だ。そして、結局わたしなんて人間は、見ている側のことしかわからない、なんならわかってもいない。いい加減、理解という言葉はその言葉の定義をもっと狭くする必要があると改めて思う。

相手が自分と同じだと思うな、本当に何においても。一瞬でもそう思ったらそれは傲り、エゴ。絶対に忘れちゃだめ。
でも、相手もそう思ってるなんてやっぱり思うな。それもエゴだから。

マイケルは人を愛したことがない。それは、ゲイである自分を認めたくないから。だから人を愛したことがない彼は自分を認めることができなくて苦しんでるのかな…と思う。言葉にするとすごくチープだけど。他者からの理解なんて得られない中、自分を認められる可能性があるのは自分しかいないのに、その自分にも認めてもらえない自分のアイデンティティを支えられるものって、一体なんなんだろう。わたしにはわからなかった。ないのかもしれない。最後のマイケルの唸り声というか叫び声に、心臓が張り裂けそうだった。いつの間にか歳を取って、知識も増えて、いろんなことをわかったフリをしてきた自分に、お前は何もわかってないって、ナイフを突きつけられたような気分だった。

何もわからない。
わかったことなんて何ひとつない。

という最後のセリフが、こんな世界ではあるけれども多くの人の耳に届いて欲しいと思うばかりです。

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