実家終いをした話

結婚するのは簡単だったが、離婚は大変な労力を使った。その経験から、変化した考え方やその他思い出話を書いています。

いつもはお彼岸の墓参りしかしていなかったが、今年はお彼岸前の父の命日にあわせて墓参りをした。午前中の墓地は、お彼岸に備えて、お茶屋さんによるお掃除が各所でされていた。

仏事はちゃんとやる家だったので、引き継いで法要をやっていたが、長女の私がメインなので、今後ちゃんとできるかとても怪しい。亡くなった人が多いと、当然法要だらけで何回忌か、さっぱりわからなくなる。ご先祖様ごめんなさいね。毎朝仏壇で手を合わせてますから、大目に見て下さい。

さて、実家だがその昔は隣もそのまた隣も我が家だったと聞いている。私のじいさんに女ができてばあさんと離婚。ばあさんは土地を譲って金を得ていたと聞いた。借地なのに、戦後のどさくさに紛れて。(そんなことするから孫の私がその当時のトラブル被ったよ。)おかげで狭い家だった。そこにばあさんと、両親と私と妹の5人で暮らしていた。

時は過ぎ、祖母、父、母とみんないなくなってしまった。母の死後、実家には母との別れを惜しんだ妹が旦那を一人暮らしさせてしばらく住んでいた。
母がどこかにいるようなそんな気もした。二人で母がきちんとしまいこんでた引出しやら、箱やらを開けて思い出話をしながら、たまに「これもらっとくわ」とかやりながら。妹とゴミ100袋は捨てたと思う。少々の嫌味を込めていうけど、母は片付け上手だ。隙間なく詰め込まれた押し入れ、タンス、残念ながら私達が使うものはほぼなかった。母がなくなる前に二人の娘に少しのアクセサリー等の託したいものは直接渡されていたので、他に由緒ある品もないし、現実はそんなものだ。

母は余命宣告されていたので口では片付けやきゃ、と言っていたが処分するのは自分が死ぬことと直面することでもあり、踏み切れなかったのかな。体調も優れないと片付けなんてできないし。仕方がないけど残された私達、片付けるのけっこうたいへんだったのよ〜

人が住まない家は痛むというが、そのとおりだった。たまに風を通しに行くが誰もいなくなった家は怖かった。家全体の空気が停滞して、母が大事に風を通して保管していた着物も、かび臭い。まだ買い取りが今ほど盛んではなく、わざわざ店に持っていったがかび臭いものは引き取れないと言われて、泣く泣く持ち帰って処分したこともあった。わすれていたのだが、その着物を処分するに当たり、タンスをゴソゴソやっていたときのこと。肩に温かいものが触れた。間違いなくあれは母が手をおいた感覚だった。右肩にだったかと思うが「あ、ママだ」と嬉しくもあり、電気もつかない薄暗い部屋で少し怖くもあり急いで帰った。「ごめんねたくさん残して。着たらいいのに!着ないの?もったいないけどじゃあ捨てていいわよ」とでも言っていたのだろうか。

その後も地代を払い続けていたが、私も妹にも家があるし、行くたびに掃除してもしきれず、汚れて行く家を見て寂しく疲れた。家のことを思うたびにもやもやした気持ちが強くなりもういいよね。とうとう手放すことにした。妹に話すと離婚したらそこに住む予定だとかわからないことを言うので、この朽ち果てている家について長々と語ったら納得してくれた。離婚するするサギの妹夫婦より、離婚しないと思っていた私が離婚したし、人生何があるかわからない。

補修に少しお金もかけたがもうで終わり。良い思い出と苦労した思い出、嫌な思い出も全てスッキリさせることで決まった。

手続きのときは涙が出た。生まれて育った小さなお家、何の涙かはハッキリとはわからないけど、50を過ぎたおばさんの目からはボロボロと涙がたくさん出た。

手放したあとも空っぽになった家を思い出し、まだ住めるのにもったいなかったというケチな思いが何度か浮かんでは消えたが、それもすぐになくなった。

今私になにかあったら成人したばかりの子供らが対応するわけで。だから、モノを減らして、スッキリと暮らしたいと思う、大仕事だった実家終いの話を思い出した、秋の夜だった。

おしまい。

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