小説「ネイキッド」・2
第1話
あたしはぽかんとした。人間驚くと、本当に口が開いてしまうのね、なんてことをぼんやり思う。なんで、クマが。なんだって、クマが。
「あんた、足痛めてるんでしょ? ちょっと腰掛けて休んでいきなさいよ」
「え、でも」
「大丈夫よ、アタシそんなあやしいクマじゃないから」
「あやしいクマって」
いや、そういうんじゃない。あたし、幻聴が聞こえてくるぐらい、ふられたショックがそんなに大きかったのだろうか。
「そんな顔しなさんなって。アタシが声かけるのなんて、珍しいことなんだからね」
「そんなこと言われても」
「あやしいと思うなら、あんたのスマホで『オアゾ クマ』で検索してごらんなさい。アタシの素性が出てくるから」
クマの言葉に促されて、あたしはスマホで検索する。あった。出てきた。丸の内ストリートギャラリーというのがあるらしく、この近辺に彫刻作品があちこちに展示されているらしい。その中でも、このクマは三沢厚彦さんという方が2017年から2019年にかけて作られたブロンズ像みたい。
「由緒正しいクマさんなのね」
「それほどでもね」
まあいいか。幻聴だろうが、なんだろうが。あたしはいま、ふられたばかりで、このあと何の予定も入っていないのだから。足も痛めているのだから。そして、家に帰ったら、また代わり映えのない日常が続いていくのだから。だから、彫刻のクマとおしゃべりするぐらい、きっとたいしたことではない。あたしは座り直して、クマと向き合った。
「それで、どうして由緒正しいクマさんが、あたしに話しかけてきたの」
「だって、この丸の内の街の中で、あんたがとてもしんどそうに見えちゃったんだもの。圧倒的にしょんぼりした顔してるんだもの」
「そんなに、しょんぼりした顔してるかなあ」
「してる、してる。表面上はうまく取り繕ってるけど、心根がしょんぼりしてんのよ、あんた」
「心根がしょんぼり……」
サクッと、言いづらいこと言ってくれるじゃないの。でもそうだ。そのとおりだ。あたしはなんだか自分がちっぽけな存在に思えてきた。はああああ。あたしは大きなため息をついた。がっくりうなだれる。
「クマさん、聞いてくれる」
「なにがあったの」
「二ヶ月前に始めた婚活アプリで知り合った男性に、約束すっぽかされた」
「あらあら」
「フラペチーノみたいに、もりもりに盛って、盛って、盛りまくってここまで来たのにね」
「フラペチーノ、そんなに盛り過ぎたらたいへんよ。バランス崩してこぼれて、あんたの綺麗な洋服汚しちゃう」
「比喩よ、比喩」
「わかってるわよ、そんなことぐらい。でもあんた、盛りに盛って、盛りまくってきたのはきょうの綺麗な洋服だけじゃないでしょう。これまでの人生ずっと無理して、もりもりに飾り立てて、自分以上に盛ろうとしてきたんじゃないの?」
あたしは言葉につまった。そうだ、クマの言うとおりだ。素顔のままで生きていちゃいけないと気づいた日から、あたしは自分の上にもりもりのクリームを塗り重ねることを始めてきたのだ。学歴も、キャリアも、外見も、みんなそうだ。
「……だって、しょうがないじゃない。飾り立てて、自分以上に盛らないと、社会の中で生き残っていけないんだから。成長していけないんだから。みんなそうやって生きてるじゃない。みんなどこかしらちょっとぐらい無理して、素顔の自分なんて隠しながら生きている人たちばかりじゃない」
そう、この右足のかかとみたいに。ちょっと無理して、いつもの自分よりもよく見せようとした挙げ句、皮がむけてしまった。痛みを抱えてしまった。
「そうかしら」
クマの言葉にあたしは顔をあげた。金色と青のコントラストがきいた瞳と目があった。瞳がきらりと光った。
「アタシはいつだって裸よ。夏の暑い日も、冬の寒い日も、雨の日も雪の日も、このまんまのネイキッドよ。すっぽんぽんで生きているわよ」
「クマさん、生きてるの」
「あんたたちとは違った世界で生きてるの」
「それでも、クマさんがすっぽんぽんのネイキッドでも平気なのは、彫刻家の方が誠心誠意あなたを作ってくれたからじゃない。こんなにきれいに作り上げてくれたからじゃないの」
「そうよ。三沢さんが精魂傾けて、アタシを作ってくれたのよ。だからアタシには、三沢さんの魂の欠片も気がついたら入っちゃった。アタシは彼の一部であり、彼の一部はアタシが構成してる。それはアタシの誇りであり、自慢よ。あんたはちがうの?」
「え?」
「あんたは、自分のこと、誇りや自慢に思ってないの?」
「誇りや、自慢……?」
そんなこと、考えたこともなかった。いつも誰かに認めてもらうことばかり考えて、この先の未来で結果を出すことばかり考えて、焦りと不安の中で生きてきた。誇りや自慢に思うなんてこと、考えたこともなかった。
「そんなこと……考えてこなかった」
「ちょっとは考えてごらんなさいよ。あんた、今日までがんばって生きてきたんだから、胸張りなさい。しょんぼりしなさんな。あと、あんまりクリームもりもりに飾り立てしすぎなさんな」
「クリームもりもりにしなかったら、どうやってみんなが認めてくれるっていうのよ。個性がなくちゃ、社会の中でどんどん埋もれていく一方じゃない」
「……あんたいっぺん、美味しい日本茶やストレートコーヒーをよく味わって飲んでごらんなさい。それで、本物の個性ってやつを学んできなさい。話の続きはそれからよ」
「どういうこと?」
しかし、クマは答えない。黙り込んでしまった。
「クマさん? クマさーん!」
クマはやっぱり答えない。なんだか恥ずかしくなって、あたりを見回す。冷静に考えてみたらあたし、彫刻と話してたんだ。人が見てたら、独り言話してるみたいに思われたんじゃないかしら。うわあ、恥ずかしい。
絆創膏を右足のかかとに貼り付けて、立ち上がる。クマのことは忘れて、切り替えて、さっき検索した丸善の二色オムライスを食べて帰ろう。
それでも……。
──「あんたは、自分のこと、誇りや自慢に思ってないの?」
クマの言葉は、あたしの胸のやわらかい部分に、ダーツの矢のように深く刺さって抜けなかった。もう、なんなのよ、まったく。こうなったらあんたの言うとおり、美味しい日本茶やコーヒーでもなんでも、飲んでやろうじゃないの。やってやろうじゃないの。挑戦状、受け取ってやるわよ。
(つづく)
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