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小説「真夜中にはチャイをあなたと」第2話(全8話)

第1話


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 幹生が天に帰ったのは、今日みたいな冷たい雨の日だった。


 白いカーネーションを棺に差し入れる時、どれだけ幹生の頬に触れたかったかわからない。指に触れたかったかわからない。でも、出来なかった。

 葬儀ではずっと、幹生が大好きだったヘルマン・プライの「菩提樹」が流れていた。幹生らしい、と思わず微笑んだ。どれだけ、幹生が奏でるピアノとこの曲を合わせてきたことだろう。放課後の練習室でこの曲を歌いながら、いつかふたりで歌曲の夕べを開こうと語り合ったこともあった。

 僕が暮らす北三日月町の隣町、駒込にあるソフィアザール・サロンで初めて、幹生と一緒に歌曲集《冬の旅》を披露させてもらった時のことは忘れられない。大学を卒業して、次の冬のことだった。歌曲の夕べを開こうという夢がかなった瞬間だった。僕らのそれぞれの家族も、大学の同級生も多く来てくれた。サロンのマダムでもあるピアニストのエミコさんは、「おふたりの息がぴったりで、とても印象深い《冬の旅》になりましたね」とおっしゃってくださった。「ありがとうございます」と言いながら、幹生はくしゃっと笑った。子供みたいな笑顔だな。そう思い至って、僕まで嬉しくなった。

 大学の同級生だった僕らは、ソルフェージュの授業で仲良くなった。大学一年の最初の授業で席が隣同士になったのをきっかけに、お互いにドイツリートを好きなこと、シューベルトの《冬の旅》を生涯の仕事としたいと思っていることなどをぽつりぽつりと語り合った。気がつけば僕のレッスンの伴奏者として、幹生がついてきてくれるようになった。授業のあとはいつも小さな練習室にこもって、たくさんの作曲家の歌曲を、たくさんたくさん合わせながら遊んだ。シューベルト、シューマン、ブラームス、ヴォルフ……どれも皆、懐かしい。

 週末になると、僕の部屋で音楽を聴くか、御茶ノ水の古書店で楽譜やCDを探すのが僕らの日常だった。御茶ノ水から神保町まで足を伸ばして、共栄堂のポークカレーと焼きリンゴを頼むのがいつものコース。本を探し回って疲れたら、ミロンガで冷たい珈琲を飲むのも、ささやかな楽しみだった。

 冬になると幹生は、よくチャイを作ってくれた。僕は、幹生の作ってくれるチャイが好きだった。
 

──「茶葉を入れた牛乳を五回沸騰させるといいって、こないだインスタで見かけたんだよ。だから、今日はそれを試してるところ」

「五回も? そうすると、牛乳煮詰まっちゃわないかなあ」

「ぼくもそう思うんだけどね、でもまずは素直に試してみようと思って」

 幹生は楽しそうに、鍋の中を見つめる。

「なんでも、インドのお母さんが教えてくれたやり方なんだって」

「そうなんだ」

「その映像で見たチャイが、すごく濃くて美味しそうでさ、司に飲ませてあげたいって思ったんだ」

「嬉しいな、ありがとう」

「いえいえ……お、五回目。これでよし、と」

 幹生はガスの火を消す。僕は、棚から茶漉しを取って幹生に渡す。幹生は笑顔で受け取り、出来たてのチャイを茶漉しで器用に漉していく。素焼きの器に入ったチャイは、湯気を立てている。

「はい、出来上がり。飲もう、飲もう」

 幹生はお盆にチャイとカラメルビスケットを乗せ、テーブルに向かう。僕はテーブルを拭く。

「いただきます」

 そう言って、微笑み合う。

「濃厚だね。煮詰まるかと思ったけど、甘みが濃くてまろやかになってる。すごく美味しい」

「よかった、嬉しいな。よし、これを『トマリギ』の定番レシピにしよう」

「幹生の、夢のチャイ屋台?」

「そうそう。いつか開きたいんだ。町の人たちが気軽に来られて、気楽にいろんな話をできるような場所、つくりたいんだ」

「でも、なんで屋台なの?」

「風が感じられるじゃない。四季折々、いろんな風が」

「冬は寒いよ」

「冬こそ、チャイが美味しい季節だよ。ストーブ出して頑張るんだよ」

「わからないな」

 僕は首を振った。ほんの少し、苛立ちを感じていた。

「幹生ほどのピアニストなら、大きなコンサートホールのお客さんを喜ばせることも出来るじゃないか。それに……よければ僕と一緒に、いろんな国も回ってほしい」

 僕はまるで、プロポーズするかのような思いで胸に温めてきた願いを口にした。幹生は目を見開いた。そして、柔らかく微笑んだ。

「司、ありがとう。そう思ってくれて、本当に嬉しいよ」

 幹生の柔らかな微笑みに包まれて、僕はなんだか恥ずかしくなる。ぶっきらぼうに尋ねる。

「……幹生の夢の終着点は、そのチャイ屋台なの?」

「終着点、ってわけじゃないよ。ぼくの日常にしたいんだ」

 幹生は微笑みながら返した。

「ぼくにとっては、ピアノを奏でることも、チャイを淹れることも同じなんだ。目の前の人が、ただ笑顔になってくれたらいい。それだけなんだよ」

「ふうん……?」

 わかったような、わからないような。僕は首を傾げながらチャイを飲んだ。このチャイは、幹生の心の中のように、濃くて深くて甘い。

「司と一緒に奏でる音楽も、司と一緒につくるチャイも、ぼくにとっては等しくしあわせなんだよ」

「……まあ、それには同意するけれど」

「ひねくれてるなあ、司は」

 頬をふくらませると、幹生は声をあげて笑った。僕も思わず笑顔になった。──



 幹生は、小学生の女の子を助けようとして亡くなった。雨でハンドルを切り損なったバイクが交差点に突っ込んできた先に、女の子がいた。幹生は走ってその子を突き飛ばした。女の子は助かった。幹生は亡くなった。僕はそれを、夕方のニュースで知った。



「司くん、今日は本当にありがとう」

 幹生のお父様とお母様が、僕に頭を下げてくださった。

「一番の親友だった君に見送ってもらえて、幹生も喜んでいると思います」

 僕は何を言うことも出来ず、ただ頭を下げる。

「これ、君に持っていてもらいたいと思って」

 銀髪で、幹生によく似た面差しのお父様が、一冊の黒い革のノートを差し出した。見覚えのある、いつものノートだ。いつも、幹生の側にあったノートだ。

「幹生が学生時代から作っていた、様々な歌曲作品を分析したノートです。君と一緒に演奏してきた歴史のようなものです。ところどころ、なぜだか美味しいチャイのレシピも書いてあります。君に、持っていてもらえたら、私達も嬉しい限りです」

 僕は涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。もしかしたら、お父様もお母様も、僕が親友以上の思いを抱いていたことには気がつかれていたのかもしれない。それでも、ずっと見守り続けてくださっていたのかもしれない。

「……ありがとうございます。お言葉に甘えて」

 震える手で受け取り、お父様とお母様を見つめる。おふたりは微笑み、頷いた。僕は唇を噛み締める。涙があとからあとからこみ上がってくる。お父様は、僕の肩を優しく抱いてくださった。

「いつでも遊びにおいで。司くんは、私達にとって息子も同然なのだから」

 その言葉に、堰き止めていた感情が溢れ出した。僕は人目を憚らず、お父様の懐に抱かれながら嗚咽した。


「……雨が冷たいと、昔のことを思い出してしまうね」

 どうやら、しばらく思い出の中にいたらしい。黒い革のノートに書かれた、チャイのレシピを眺めながら、僕の心は過去を彷徨っていたみたいだ。

 雨の日は、屋台は休み。ひとりの部屋では、ついつい思い出に浸ってしまう。

「さて、チャイを作ろうか。今日はカルダモン多めにしてみよう」

 独り言をつぶやきながら、立ち上がる。幹生の作ってくれたレシピに添って、濃くて深くて甘いチャイを今日もつくろう。








(つづく)





 

 



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