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7年の介護を経験して〜あとがき〜

(母の畑を再開。なんと娘が植えてくれました〜茄子ピーマンきゅうりかぼちゃミニトマト♪)


7年の介護をふりかえり、
こんなに書けるとは思ってなくて。 
自分自身、記事として残せたことが
人生のひと区切りになったと思います。


何の知識もないまま、
突然に始まった介護。

母は元気なころは、畑や
パークゴルフ、パチンコにと
とてもパワフルに活動していました。
どれもできなくなって‥‥

まだ、歩ける時はパチンコに行っていましたが、歩行が困難になるにつれ、近所の人に見られるのを嫌がり、近所の人を見かけると介助している私の手を振り払ったこともありました。
外に出ることも、ほとんどなくなりました。

母の急激な変化に
戸惑い、悲しみ、落ち込み。 
まるで反抗期のようにわがままだったり、
敵意をあらわに憎たらしいことを言われたり。
あんなに信頼してた娘だよ(涙)。
どんなに頑張って介護しても、「ありがとう」は言ってもらえませんでした。

でも、母も戸惑い、辛かったんだろうなと。
病気さえしなければ、
今も元気に過ごせてたかもしれないと。


介護は明るくとか、楽しくとか、 
理想ではあるけれど、
実際は大変なことばかり!

体力的に1番大変だったのは、 
やはり、オムツ交換。
(介護の後半ほどの頃ですが)
大の方の処理はきびしかった!
夜寝る前には大判のおむつに変えるのですが、
ズボンを脱がし、体を横向きにし、
おむつを敷きパットをつけて、
体勢を戻し、オムツのテープを貼ってズボンを履かせる。
朝は、ズボンを脱いで、おむつから
リハビリパンツに変えて、ズボンを履く。
かなりの重労働でした〜。
"おむつ外し"が始まった時は、困り果て悩みました。

母の場合、
感染性腸炎で入院した病院で、
漢方専門の先生がケアマネージャーに
なって頂けたことが、運命の出会いでした。
もし、自分で申請して認定を受けて、
いろいろな手続きなど1人でしていたら、
分からないことだらけで、
大変だったと思います。


実は最初に入院したのは違う病院で、
脳梗塞後に、リハビリのために
通っていた病院でした。

そこでの入院生活で、せん妄が出て、
おかしなことばかり言うようになりました。
看護師さんも態度が悪くて、
雰囲気の悪い病院だなと感じていました。

ある日見舞いに来ているときでした。
看護師が母の手の甲に点滴の針を刺し、
その針を一瞬持ち上げたのです。
見間違いかと思いましたがその時、
母は顔を歪め痛がって…  

そこでは1週間ほど入院したのですが、
母の"この病院嫌だ"との訴えで(私も同意)。
土日、病院の先生が不在で、
退院手続きが出来ず、
逃げるように(勝手に)退院し、 
お世話なっていた病院に 
転院してきました(まさに転がり込むように!)
後の手続きやらなんやら、
もう、それは大変でした(汗)。


入院、退院、老健入所、退所、
デイサービス入所とするたび、  
出向いて手続きに。 
また、担当者会議も度々ありました。
毎月の薬をもらうための受診や、
体調不良での受診、病院に何度も通い。 
そのたびに
仕事を休んだり、早退したり。

私が会社を辞めずに、7年間。
右も左も分からぬまま、
ビジネスケアラーとして
介護を続けてこられたのは、 
その時出会ったケアマネジャーの 
お陰だと思っています。
 
そして、病院の主治医の先生や看護師さん。
3カ所のデイサービスのみなさま。
在宅ヘルパーの方々、
訪問リハビリの技師さん。 
いつも明るい福祉レンタルのスタッフさん。
老健の介護士さんやリハビリのお兄さん。
特養の介護士さん看護士さん。
2人目のケアマネジャーさん。
(この方は最後まで心が開けませんでしたが)
家族のみんな。
理解のある職場も本当に有り難かったです。


たくさんの方々に助けられて、
乗り越えてこられたと思っています。 
母との別れは、いつかはと覚悟は
していたつもりでしたが、
突然で悲しみは大きかったです。
でも、最期は短い時間でしたが、
寄り添うことができました。
本当におかげさまで、
感謝しかありません。


今現在、ケアマネジャー不足が 
深刻な状況になっていると。
施設の長期の順番待ちなども、
介護する方の負担が心配されます。

様々な介護サービスや
自治体の介護補助制度など。
少しでも、負担が減り、軽くなれば、
介護する方も介護される方もまた幸せに 
なるんじゃないかと思います。

頑張りすぎず、息抜きしながらできたら‥‥

まだ、介護が始まる少し前。娘と仲良く薬カレンダーに
薬を入れている写真。

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