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なぜ私がインクルーシブデザインに関心を持っているのか(自己紹介シリーズ)

こんにちは、さゆちゃむです。普段はNPO法人Collableの代表理事として、インクルーシブデザインの普及を中心としたしごとをしています。

昔は自身がどのような背景でこのテーマに取り組むようになったのかは語りまくっていた気がするのですが、最近はめっきりなくなってしまったので、書いてみようかなと思います。

なぜなら今日は誕生日だから👏👏👏

たぶん珍しい家庭環境

88年生まれ。大分県出身と言っていますが、出生地は長崎県生まれです。生まれてまもなく大分県にうつったから大分出身にさせてください。

もともとの関心は、「障害のある人達が障害のない人達とともに学ぶって本当にできるのか?」という問いを明らかにしたくてこれまで過ごしてきました。

その背景には私の家族のことがありまして、私には年子の兄と3つ下の弟がいまして、彼らは知的障害と自閉症をあわせもっています。いわゆる「きょうだい」という立場です。(ちょっと今の写真を出すと肖像権的なことが気になるんで、随分前の写真にします)

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生まれたときから彼らとの関わりが家族としてあることって、自身としては珍しくはなく、自分が知る家族像でしかないのですが、年頃になり、大人に向かっていくにつれて、それが珍しいと知ります。

兄が小学校から特別支援学校(当時は養護学校)に通っているとか、弟は小学校のときに途中から特別に教室を作ってもらったとか(今で言う特別支援学級ですが、全校生徒が150人くらいだったので、わざわざ作ってもらったっぽい感じ)、その後特別支援学校の中等部に行ったとか。

兄については声をあげるタイプだし、幼い頃はいきなり行方不明になったりしていて、比較的手がかかる人だったのではと思います。

弟も、今となってはおとなしいタイプですが、一時期小学生の時にいじめられたりして家庭内が不安定になったりした時期もありました

彼らが奇異な目で見られていくこと、それらにまつわる差別用語のようなものが飛び交うこと、私の家族が社会と違うことへの戸惑いみたいなものは、今思えばたくさんあったように思います。

私が確かに、一時期学校で馴染めなかったのは、そうした自分にまつわる違いと、それ以外の社会とどう共存していいかわからなかったからかもしれません。

そういう環境って、少し精神的に成長をはやめていくので、周りと馴染みにくいんですよね。今思えばうまくやればよかったのになあと思ったり。

「正しいこと」を主張しても、社会は変わらない

そんなわけで、道徳的な作文も、ちょっと書けば褒められ、それだけで弁論大会の代表になったこともあったけど、周りから偏見がなくなったのかと言うと疑問だし「差別をすることはよくない」という態度をとってみたことで友だちがいなくなったりしました。中学生の時ですね。

小さな地域なので、1つ居場所がなくなると、住んでいる地域から居場所がなくなります。カフェなんかもなかったし、近所にコンビニもなかった。(今も車で15分かけてコンビニに行く距離に実家があります)

私は家庭環境柄、外食も少なかったし、親も外に出向くことが少なかったため、家と学校の往復の中で孤独を感じるしかありませんでした。

いやでも、なんでJ-POPで歌姫が歌う「愛」や「みんな」に共感するのに、その中に、障害のある人っていないんだろう、ってずっと考えてたんですよね。ちょっと気持ち悪いですね。

でも、私は人間として正しいのか?を問うと、実際に偏見を持つヤンキーみたいな同級生に嫌悪感をもっているわけで、これって正しいの?って思うわけです。矛盾だな、と。

そこからよーーーく考えた結果、道徳的によいことを主張してみても、悪いことを正しく指摘したり運動をしかけたところで「どっちも無駄なのかもしれない」と気づいて、全部やめました。

それは冷めたわけではなくて、自分の矛盾も抱えたうえで、違う方法をもたなければいけない、と気づいた頃です(そういう思考で高校生になって、学校で「やらされる」人権学習にいちゃもんつけたりもしてましたね)。

じゃあ私がきょうだいのためになにかしてあげてきたか?と言えば、そういう感じでもない。親でもない「きょうだい」という立場は、家は当事者家族であり、家をでた社会では、1人の人なんですよね。

その「際」にいる自分にきづいたのもこの頃。

そんな中でも葛藤は静かにあり、高校もつまらなくなっていた中で、当時担任でもなかったし学年で授業も受けたことのない、生徒会長をやったことでお世話になった恩師と、地元の変わった塾の先生に「お前は東京にでたほうがいいよ」と言われたのを理由に、親を説得して東京の大学を志しました。

誰もしらないところに行きたかった10代のおわり。

(写真は高校の時の修学旅行のときの写真)

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親元を離れ、人生の命題を考える

大学生活は楽しくて、大学以内外にたくさん友だちができました。東京にでろっていうアドバイスの意味を知りました。

就活の時期は、いろいろあってメディアの道に行きたかったのですが、きっかけがあって、最初の問いに戻り、大学院進学を志しました。(それまではもう、福祉とか特別支援とかに触れないで広く教育に関心を向けると決めていましたが、方向転換)

「障害のある人達が障害のない人達とともに学ぶって本当にできるのか?」

はっきり言って、道徳的に育てられる機会があったり、学校で同じ空間で学んだりすることはあっても、何かがよくなった試しなんかない、というのが私の結論でした。

同時に、先に書いたように、差別・偏見意識がどう育まれるのか、自分がもし障害のあるきょうだいがいなくても、その差別・偏見意識はなかったのかと考えたら、正直自信がありませんでした。だって私にもなにかの差別・偏見意識はあると思ったから。自己矛盾と付き合わなければいけない。

同時に、この問いにアプローチする上では、福祉や特別支援教育の文脈で取り掛かろうと思っても、たぶん新しい提案はできないのだろうというのは、私がそういう環境に近いところで育ったからこそ思っていました。

よその障害のある子たちと遊ぶのも得意だったので、地元の福祉士さんに「ぜひ福祉の道に来てほしい」と言われたり、親元を離れると言ったら近所の人に「おうちは大丈夫なの?」と心配されたりした経験から、「こういう考え方が変わらない限り、たぶん永遠にこのループで社会は変わらないな」と思った感じです。

そんなときに、大学院という選択肢と、志す研究室をみつけます。

大学院生になる

大学院進学を志すときに、たまたま山内先生の研究室をしり、先輩になる安斎さんと知り合い、この大学院だけを受験すると決めました。(紹介してくれたようへいさんがいなかったら今がないので感謝しかない…)

▼先輩安斎さんの会社:Mimicry Design

山内研は学習環境デザインをテーマに、様々な学習者にまつわる研究を推奨してくれていました。しかし障害のある人を対象とした研究をこれまで扱ったことはありません。だからこそ、この研究室で研究したいと思いました

そのころに出会ったキーワードがインクルーシブデザインで、この分野は実際に願書提出の際に書いた研究計画書で引用させていてから知ったのですが、入学後実際にその著者であった京都大学の塩瀬隆之先生に直接お世話になり、授業潜らせてもらったり、ワークショップに周辺参加させていただいたりしていました。都内から京都に通った時期もあった。これができたのも、山内先生のおかげです。

(塩瀬先生、安斎さんと開催した研究会の写真)

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これがきっかけで安斎さんや、塩瀬先生と一緒にショートレターを書かせてもらう機会もありました。

インクルーシブデザインの面白さは、デザインの観点からも意義がありますが、どちらかというと「デザインを理由に、間接的に相手と関係をつくれる」という構造に関心がありました。

これってすごくて、直接自分の事情を聞いたり知ったりするには重いのに、理由を間に挟むだけで、ものすごくカジュアルに相手と関係がつくれるっぽいんですよね。

そしてできればその構造を、こどもたちの現場に応用したかった、という感じです。

実際に修論では、実は知的・発達障害のある子たちが、障害のない子たちと一緒にCAMPさんのワークショップに参加した際に一緒に作品をつくると、どんな関わりが見られるのかを明らかにするという研究をしました。

入学できて、そしてここで修論を書けて修了できたことを本当に嬉しく思っていますし、ここでさらに運命がやってきます。

というのも実はM1のときに修了後NPOをつくったら?という問いかけをしてくれたのも山内先生でした。1ヶ月考えて、もう一度先生と相談して、「やります」って決めたときの高揚感は昨日のことのように思い出します。

そして今、私はどうしていくのか。

Collableを立ち上げてからは、こどもたち向けの活動を延長させようと思ったのですが、事業の難しさの中で悩んだり、インクルーシブデザイン自体も普及しきれてない時代でなかなか目立ったことができませんでした。

事業づくりどころかチーム作りで失敗したことばかりだったし、悔しい経験もありました。私に失望した人はたくさんいただろうなとも思うけど、それで落ち込んでいてはいけなくて、もっともっと成長しないといけないんだなと強く気づけたのは、Collableを作れたからだと思います。

そんな中、インクルーシブデザインはここ数年認知がひろがってきたこともあって、インクルーシブデザインに軸足をよせて、現在はそうした普及活動に取り組んでいます。

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結局インクルーシブデザインという方法にあえてこだわっているのだけど、結局自分自身の関心は変わっていません。すごいことをして急激に社会を変えようという大げさなことも思ってない。

ただ粛々と、その事象がなぜ起こるのかをとらえながら、「自分とかなり違う人と、共生、共存、共創する」ための方法の、新しい提案の事例を作ること。

そのためにまずはワークショップを散々やりました。100以上のワークショップや企画をこれまで手掛けてきたみたいです。

そして、ワークショップだけをしていくわけでなく、たぶんずっとテーマは変わらずに向き合っていくと思うな。

これからさらに何をするのかは、もう少ししたら発表したいので、その時を緩やかにお待ちいただけたら嬉しいです🌹


ちなみに田舎で孤独感をつのらせた中高時代のときにインターネットどっぷりで、テキストサイトつくったりブログやったりして、世界広げられた感じがしました。だからインターネットだいすき。

あと、バラエティコンテンツと古着と北欧デザインが好物です!

以上です!31歳になりました!最後まで読んでくださりありがとうございました🐼


🐼エンドロール🐼

▼アイキャッチの写真を撮ってくれている小野澤峻くん
(これの人です)

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夫🐼山田家のほうの家族も含めて愛情をいつもありがとう

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(今日しごとだったから前日にプレ祝いしてもらった)


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