二十六区の夜行車

枠の中を流れていく星空が綺麗だ。この電車はどこへ向かうのか、行き先が示されていないものだからわからない。一緒に乗り込んだ恋人は呑気にスナック菓子を咀嚼していた。ペットボトルの封を軽く開けてから差し出せば、待ってましたと言わんばかりにそれを受け取り飲み込んでいく。夜行列車のため化粧の一つもしてこなかった彼女はへらへらと笑いながら菓子を勧めてくる。どこへ行くか何度聞いても答えてくれないのでもう聞くのはやめた。リクライニングを後ろに倒し、普通に座っているよりは距離の近くなった顔が笑みを浮かべる。この列車に乗ってから彼女は随分と楽しそうだ。

「今日は寝ちゃダメね」
「は。なんでだよ」
「ダメったらダメ~」

けらけら笑いながら彼女は俺の頭を撫でる。振り払うことはしなかった。4両編成のこの列車の乗客は、とりあえず見渡す限りは自分達しかいない。乗り込むときに騒ぎたい放題だね、と笑って言われたので、そうだな、と笑って返していた。サイズがいくつも大きい俺のパーカーの中に着てきたものが寝間着の彼女は、手荷物が驚くほど少ない。財布くらいしか入らないだろ、という鞄ひとつ。それだけだ。明日の朝どこへ行くか本当に検討もつかない。

「切符を確認します」
「はぁい」

音もなく近づいてきた乗務員に肩を震わせた俺とは打って変わって、隣に座る彼女は平気な顔で切符を差し出していた。俺の分も一緒に出してくれたらしく、二枚分確認しているのをぼんやり見つめる。あの切符を見れば、俺達の行き先がわかるんじゃ? そう思い、自分で受け取ろうと腕を出す準備をした。数秒しても乗務員が差し出してこないので、もしかして切符を間違えたのではないかと彼女の方を見れば、彼女は窓の外を見つめていた。おい、と声をかけようとすれば窓の外の風景に見とれる彼女の横顔に見とれてしまった。なんだ、その表情は。

「すいません、お返ししますね」
「はーい!」
「お気をつけて」

体が硬直している間に彼女が二枚の切符を受け取ってしまう。してやられた、と思った頃には既に遅く 何が入るのかもわからない鞄に既に切符は仕舞われてしまった。ここまできたら仕方ない、最後まで茶番に付き合ってやろうと腹をくくる。それよりも先程の表情の理由が知りたい。

「いきたくないなあ」
「は?」
「ね、きれいだよ、そと」
「や、うん。どしたのお前。変じゃない?」
「さいごまでいっしょにいれないの。ごめんね」

会話がどうにもかみ合わない。ついでに視線も交わらない。他に乗客がいないのをいいことに、彼女の肩をつかんで少し大きな声で名前を呼ぶ。元気の良い返事と泣き顔が返ってきた。
なんだ。意味が分からない。おかしい。この列車はどこへ向かっている?

「あのね、私は次で降りるけど、さいごまで降りちゃだめだよ」
「は?おい、待て。意味わからん。ちゃんと説明しろ」
「さいごまで行けば帰れるから。あとね、このパーカー、うちに置いてったやつだけど ちょうだいね」

いつもとなんら変わりのない笑顔に涙を付け足した彼女は訳の分からないことばかり言う。そのパーカーはお前が寝ぼけて間違えて着ていたのが可愛かったのでわざと忘れていったフリをして置いていったやつだ。元よりくれてやるつもりである。空になった菓子の袋をぐしゃぐしゃに丸めて備え付けのビニール袋に入れた彼女が突然立ち上がる。腕を引かれて一緒に通路へ出る。本当に走っているのか不思議なくらい列車は揺れない。

「ちゅう、して?」
「…おう」

泣きながら言うものだから。結局何もわからないままキスをしてやる。唇が離れた後にゆっくりと抱きしめられる。彼女の涙で自分のパーカーが湿っていく。一定のリズムで背中を叩き、小さな赤子をあやすようにしてやる。これが好きなのは知っていたから。

「ごめんね。ちゃんと終点まで行ってね」

列車が止まる。アナウンスが静かに到着先を告げる。

「後は追わないでね。お葬式、泣きすぎないでね。私のことはできれば忘れてね。彼女ができたら報告してね。ずっとだいすきだよ」

彼女が離れていく。俺の足は地面に張り付いて動かなくなってしまった。先程までは存在しなかった電光掲示板が終点、現代を指示している。彼女が下りた先は天国だ。


らくがき

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