悪女のマナー

トイレのことを御手洗いと呼ぶのが自分に定着したのはいつからだっただろうか。誰かと出かけるときに必ず3回は行く場所の名前をお上品にと心がけるようになったのはそのとき一緒にいた男が原因だった気がする。マットで濃いめの赤い紅を唇へ引き、上から数ヶ月前に春限定色で販売されていたピンクのラメ入りグロスを重ねる。ティントが好みじゃない私なりの、大人の階段の登り方。ヒールは足が疲れちゃうけれど、ぺったんこはNG。口角を上げて顔を確認。うん、今日もカワイイ。
「お待たせ!」
「ううん。行こうか」
ぬるりと組まれる腕に吐きそうになるのを我慢してカツカツと足元を鳴らす。加齢臭とまではいかないけれど決していい匂いはしないおじさんの、先程聞いたばかりの名前を呼んではご機嫌取り。出されたご飯は嫌いなものでも美味しそうに食べて、一ミリもそんなことはないけれど酔っぱらっちゃったアピールも欠かさずに。どこまで"シてあげる"かは金額と態度によるけれど、今日のおじさんはそこそこいい人っぽい。お金を貰うんだから、手も気も抜かない。プロ意識、なんて言えばプロの人に怒られちゃうだろうけど。それでも私なりのぐずぐずのプライド。

終わった後、空っぽになった部屋で一人ベッドで膝を抱える時間が好き。テーブルに置かれたお金と電話番号、中身はもう入っていない缶ビールと缶チューハイ。虚無を体現したかのようなこの時間は、私にとって相当大切な時間。だいじょうぶ、間違ってない。言い聞かせるように何度も心の中で繰り返す。夏とは言え何も着ていないとさすがに肌寒い。予め持ってきておいた服に着替えて荷物をまとめてホテルをでる。テーブルの上に置かれていた電話番号の先へメッセージを送る。定型文を少しだけ崩して、顔文字は控えめ、絵文字は多め。ああ、ようやく朝がきた。帰って眠ろう。
「ただいまぁ」
「おかえり」
スーツ姿の彼はどうやらもうすぐ家を出るところらしい。ワックスできっちりセットされた髪の毛をつついてから洗面台へ行き化粧を落とし、スキンケアをして、歯を磨き、ベッドへ倒れこむように飛び込んだ。彼の匂いがする。少しもくさくなんかない、爽やかないい匂い。タオルケットにくるまって意識して呼吸をする。ああ、生きている。
「おい」
「んぅ」
「もう行くからな」
「はあい」
目を閉じたまま手を振れば、溜息が返ってきた。バタバタ、ガチャン。カチ。鍵の閉まる音が聞こえたので、安心して眠れる。少し前まで彼のいたベッドは、微かに温もりが残っている。それをどこへも渡さないと言わんばかりにかき集める。

腐ってしまった私達の関係性を、繋ぎとめているのは決して恋でも愛でもない。

惰性だ。恐らくだとか多分だとかではなく、確実に。証拠としては不十分かもしれないが、結婚指輪はお互い外してしまっていた。同じ家に住んでいる他人である。学生が憧れるルームシェアの方がまだいい関係性だろう。恋慕がないと言えば、ゼロではないのだろう。それは私も、彼も。だから互いに出ていけとも出ていくとも言わない。それでも私達は、書面上ではそうであっても、もう夫婦でも、恋人でもなかった。
「なんでこうなっちゃうかな」
もっとうまくやると思ったのに。人間1回目ってこんなもん? 私だって幸せな家庭を築きたかったよ。どこから道を間違えちゃったんだろう。一緒の道を行かなくなったのはなんで?
止まらなくなる思考に蓋をしてくれる太陽みたいな存在はいなくなってしまった。あの日、私達は確かに恋人で、夫婦で、好き同士だったのに。

彼には恋人がいる。私みたいにだらしなくなくて、背も低くて、髪の短い子。ぺったんこの靴が似合っていて、ナチュラルメイクの子。もうすぐ付き合って一年くらい経つんじゃないのかな。初めて知ったときは、泣いて、怒って、それでもどうしようもなくて、ご飯も食べれなくなって。その子のことを殺してやるとすらも思った。けど、今は上手くいくといいね、なんて彼に言えるほどだ。多分、そこからずっと、私達は間違えている。腐敗が始まったのはそのもう少し前だろう。
彼とあの子が上手くいってしまえば、私がこの家からでていくか、彼がでていくかの二択になってしまう。それはいやだなあ。離婚届も書かなきゃいけなくなる。苗字も戻る。光熱費だって自分で払わなきゃいけなくなるし、最悪の場合家探しから始めなくちゃいけない。めんどくさい。だから、もうちょっとこのままがいい。ほとんど家の中で顔を合わせることもなくなってしまったけれど、それでも、このままがいいなあ。
寝て、目を覚ましたら、また夜の街へ行かないと。次の人はどんな人だろう、お金はもう大分溜まったけれど、やめられなくて困るなあ。寂しさを埋める犯罪すれすれのこの行為を、どう思っているか、心の準備ができたら彼に聞いてみよう。きっとその日は、どちらかが家を出ていく日だ。

彼の匂いがするベッドの上でだけ、生きていることを感じられるのに。


タイトル:喘息

失恋をしたのは彼だったのか私だったのか。それとも両方だったのか、という話。不完全燃焼感

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