やさしい復讐

待ち合わせに間に合った試しがない。
揃いで買った腕時計の針を見つめて溜息を吐く。催促の連絡を入れればすぐに返信が届く。「もうすぐ着く」いつもこれだ。もうすぐの定義が君と私とじゃ違いすぎて話にならない。あらかじめ予想して持ってきていた文庫本を取り出して字を追うことにする。今日は何分、こないのかな。

「ごめん!」
待った? と続けないのを褒めてあげたほうがいいのかどうか迷って、結局褒めるのはやめた。あまり頭に入れる気なく読んでいた本を鞄に仕舞って顔を上げる。息切れしているけれどばっちり決まったヘアセット、揃いの腕時計、プレゼントした靴、私が好きだと言った香水のにおい。完璧だ。遅刻してきたことを除いて。
悪びれもなく私の隣を位置取り、手を取り、指が絡まる。流れが綺麗すぎるからいつも私はされるがまま。幸せそうな顔で会話を始められれば、結局待たされたことなんてどうでもよくなってしまう。そうさせてしまうことを狙っていないのだから、ずるい。黙ったままの私を不思議に思ったのか、顔を覗き込まれて思わずそっぽを向く。けらけらと笑い声が聞こえる。繋いだ手が熱い。
交際を始めてもう二年が経つが、何回会っても慣れない。毎日、惚れている。冗談や、比喩ではなく。

そんな私と彼の関係は、案外呆気なく終わりを迎えた。

いつも通りのデート。いつも通りの待ち合わせ場所。いつもの様に五分前には着くように向かえば、いつもはあるはずのない姿がそこにあった。スマートフォンをいじりながら、右足に重心を傾けて立っている恋人の姿に驚いて思わず立ち止まってしまう。今まで、たったの一度も、彼が待ち合わせに遅刻しなかった時はない。
詰まるところ、これはどういうことなのだろうか。冷や汗が止まらない背中を無視して頭をフル回転させる。思考が深く深くへ潜っていくにつれて、じわじわと嫌な予感に首を絞められる。恐らく、何か話をされる。それは、いいことではないのだろう。
「ごめん、待った?」
「お。おはよ。待ってないよ、まだ時間なってないじゃん」
そのあとに彼の笑いが続く。私はそれに、何と答えていたかわからない。腕時計を見て笑う彼は、一見いつも通りだ。身に着けているものも、表情も、声色も、何も変わりはない。待ち合わせに遅れないのはいいことではないのかと複数の思考の中のひとつが叫ぶ。そうだ。一般的に言えば、待ち合わせには遅れるべきではないし、少し前には着いているのが褒められる行動だろう。じゃあ、なんでこんなに、苦しいんだ。
「いこ」
いつもと同じ、右隣。私の右手を簡単に絡めとって歩を進めていく。私はされるがまま、それについていく。幸せそうな顔で会話が始まる。なんだ、なにも、なにもないじゃないか。
「いつも5分前にはきてんの?」
「え、あ、うん」
「ん。そっか。待たせててごめんね」
何よ今更、と笑い飛ばそうと思ったところで彼の真剣な表情に唇が静止する。思わず右手に力を籠める。彼の目が緩やかに細くなっていき、一本の線が弧を描いている。ケアなんてろくにしていないくせに私より数倍艶やかな唇が動く。綺麗だ。
「そろそろかなって」
「ん……うん、」
それ以外の言葉が出てこなくて歯切れの悪い返事をしてしまう。振りほどかれない手には汗が滲んで共有されてしまっている。彼の足が止まったので、自然と私の足も止まる。いつものように顔を覗き込まれて、そっぽを向いた。どうしてそんなに悲しい顔するの。笑い声は聞こえなかった。
「荷物は送ってくれたらいいからさ。なんなら捨ててもいいし」
「すてないよ」
「…そっか」
パッと手が離れて、隣にいたはずの彼が目の前にいる。私の顔にはみっともない水がぼろぼろと流れている。泣き虫な彼の顔にも同様。泣くくらいなら別れを選択しなければいいのに。
今日も、私は変わらない。みっともない泣き顔にすら惚れている。そうか、この体験は、私だけのものだったのか。
「ごめんな。泣くなよ」
「そっちこそ」
「ははは。そうだな」
手を取られて、何かを握らされる。開こうとする前に首を横に振られてしまったのでやめた。一歩、もう一歩。彼が離れていく。
「たまには連絡よこせよ」
「……ん」
「じゃあな」
くるり。彼が振り返る。小さくなっていく背中を見つめる。潮時ってやつがきたのだろうか。いつから彼にはそのような気持ちが存在していたのだろうか。私のどこを探しても、存在しないのにな。
待ち合わせに遅れてこなかったことは、謝罪のつもりなんだろうか。せめてもの痛み分けのつもりなんだろうか。意図がわからない。初めてのデートですら、遅刻してきたくせに。

私が五分前にいつもいることを知った彼は、きっとこの先ずっと、待ち合わせに苦しめられるだろう。

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