灰色の週末

月曜日はいつにも増して憂鬱だ。二日間休んだ分の仕事が溜まっていることは安易に想像できるし、なによりかったるい朝礼がある。校長先生の長い話を半目で聞いていればよかった学生時代とは違って、社会人の朝礼には発言する時間がある。内容はこれといって特別なことはなく、先週の進捗だとか、今週中にやらなければならない案件だとか、何曜日は誰がいないだとか、偉い人がくるだとか、そんなこと。
朝礼を思い浮かべてどんよりしたところで顔を洗って歯を磨く。髪の毛を濡らして寝癖を手櫛で直して化粧水を顔に塗る。気合のない化粧を済ませて髪の毛をキッチリまとめてヘアスプレーで固める。染みついたモーニングルーティンに少し悲しくなりながらパンプスに足を突っ込んで家を出た。
朝日が憎いほど眩しい。電車に乗り込む人々の空気がいつもより少し沈んでいるのは、月曜独特だろう。私はこれが嫌いだったりする。

「おはよう。今日も顔こわいね」

出社して自分の席についた途端、これだ。ひとつ上の先輩はよく皮肉を言う。私がまだ新人だった頃、教育係としてお世話になった人。ツンとした態度でかけられた言葉をスルーして挨拶を返せば爽やかな笑顔で「可愛くないな」と笑われる。可愛いなんて思っていただかなくて結構です、と言わなくてもわかったのか「はいはい」と言われた。
月曜朝、朝礼までの数分間。先輩に会えるのは週に一回、このタイミングだけだった。一年と半年程前に部署が移動になって隣の館に行ってしまわれた。車内栄転とも呼べる異動だったため、朝礼には向こう側のプロジェクト代表としていつも来ている。飽きずに私のことをからかうのは最早恒例とも言えるほど馴染んでいた。
「あ、そうだ。週末どっちか空いてる?」
「金曜の夜か土曜の昼からでよければ」
嬉しそうに手帳を開いて何かを確認している先輩の伏せた目に釘付けになる。視線を向けていることがバレてはいけない。ブラインドから僅かに漏れた太陽の光が差し込む黒髪が綺麗だ。
私は、随分前からこのひとに心を奪われている。
「じゃあ金曜そのまま空けといて」
「わかりました」
「気にならんの?」
「気にしたところで今すぐに教えてくれる訳じゃないでしょう」
そう言えば先輩はからからと、太陽のように眩しく笑った。たった一年半、けれど一年半、ずっと傍で仕事をさせてもらっていたのだ。先輩が異動してから初めて気づいた感情に、恋という名前を付けるのはあまりに煌めきすぎていて嫌だった。だから、恋はしていない。けれど、好きなひとはいる。
くああ、と大きなあくびをしてから先輩の背筋が伸びる。いつもは個室からでてくることのない偉い人達が一斉にオフィスに入ってくる。周りにいる社員の背筋も伸びるので、それに合わせて私も姿勢を正す。はやくおわらないかなあ。なんて、まだ始まってもいないのに。

「――それでは今日の朝礼は終了でよろしいですか?」
「あ。すんません、ひとついいですか」
話始める前に大体「あ」とつけるのは先輩の癖だ。辛く長い朝礼もそろそろ終わりだと思ったのに。大事な話でもあるのだろうか、と先輩に視線を向ければ照れたように笑っていた。
目が、合った。先輩の唇が何かを示すようにゆっくり私に向かって動く。そこに音はない。口パクで何かを伝えられたようだが、何と言いたかったのかわからなかった。後で聞こう。
「実は結婚することになりまして、一応ご報告させていただきます」
瞬間、ワッと歓声が沸く。拍手の音や口々に発言される「おめでとう」の声に困惑する。実は結婚することになりまして。結婚。結婚? 結婚って、なんだ。
騒がしいのも束の間、なんとかの一声でその場は収束される。朝礼が終わって、先輩は数人に囲まれながらこちらのオフィスを出て行った。部屋を出る直前に、振り向いて手を振られたので会釈をした。どんな表情をしていたのかは、正直わからない。
未だ先程の余韻で少しだけざわついている室内で、私だけが彼の幸せを喜んでいないのだろう。遠くの女性社員が、先輩かっこいいもんね、と盛り上がっている。お前に何がわかるんだ、と言える訳もないので手に力を籠めるだけでやめておいた。爪が深く食い込んで痛い。
各々緩やかに仕事に入る中、思わず検索をかけてしまった。結婚とは。その先の文字やページを読んでも、結局よくわからなかった。

「うーっす」
「お疲れ様です」
「おう。今週もおつかれさん」

予定を空けていた金曜日、玄関で私を待っていた先輩はご機嫌だった。どこに行くとも何をするとも言わずに歩を進めていくので黙ってそれについていく。繰り広げられるのはいつも通りの会話で、まるで月曜日の衝撃なんてなかったみたいだ。
しばらく歩いていると先輩が話を切って電話を耳に当てる。灯りのともったビルの群列を眺めては、残業してるのかな、と中に存在しているであろう人々のことを思う。金曜に定時で上がれないのはしんどいだろうな、なんて、現実逃避も甚だしいようなことばかりを。

「あ。こっち!」
電話をしていた先輩が突然前方に向かって大きな声を上げたので思わずそちらへ視線を向ける。その先には、薄い黄色の可愛らしいワンピースを着た女性が手を振っていた。鈍器で殴られたような痛みが脳内に響く。最悪の結果を予想して吐きそうになる。かなしいのは、この予想はきっと正解だということ。
「わあ、はじめまして、こんばんは!」
「お前には紹介しておきたくてさ、」
嫁だよ、と続いた言葉に、私はちゃんと、笑えていただろうか。
「こんばんは、初めまして。先輩にはいつも大変お世話になっております…」
社畜ってすごい。
口からすらすらと漏れていく言語に眩暈がする。自己紹介までを難なく終わらせた私は、先輩の言う通り、本当に可愛くない。
私より10センチは低いであろう身長に、ふわふわと揺れる茶色い髪の毛、大きくて丸いぱっちりとした目、柔らかな声と笑顔。先輩が惚れるのも頷けるようなきれいなひとだった。結婚をすると言うことは、これは見た目限りのことではないのだろう。いい匂いしそうだなあ。
「遅くにごめんね。お金はこの人がだすからさ、ご飯行きませんか?」
「おいおい」
「仕事中のセンパイのこと、知りたいな~って」
いつも先輩が私に浴びせるような皮肉とは別物の、可愛いからかいとも言えるその行為を、そのまま素直に可愛いなと思う。私で良ければ、と陳腐な言葉が口から出ていく。お嫁さんは嬉しそうに笑っていた。先輩も、同様に。
これから私は、先輩のことが好きだという部分だけをひた隠しにして、彼のことを話すのだろう。そして、私の知らない先輩のことを沢山聞くのだろう。ああ、最悪だ。帰りたい。なんなら月曜に仕事行くのやめたい。幸せが詰まっている空間で、私だけが浮いている。

こんな幸せ浴びせてくるくらいなら、あのとき音もなくごめんなんて言わないでくださいよ。と、泥酔しても言えないであろうことが私の敗因だ。


―――

タイトル:喘息

寝るまでは今日カウント

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