水槽落下

これは、ぼくが水槽に落っこちた日のはなしだ。

その日はとても暑い日だった。窓を開けて、カーテンを閉めて、冷房の温度を目いっぱい下げて、扇風機も回して。それでも汗が滲んでくるような夏の日。夏祭りでつかまえた金魚にエサをやって、お前はいいよなあ、水の中で。なんて思っていた日。コンコンとノックの音がして、間延びした返事をしてドアを開ければ、そこにはお風呂くらい大きい水槽があった。
「え…」
なんだこれは。と言葉が口から滑り込むよりも早く、ぼくは水槽に落っこちた。それは、木から林檎が落ちたのと同じくらい当たり前のように、それでいて強い何かに引っ張られるかのように。
ばしゃん! 大きな音と水がぼくを囲む。不思議と冷たくない。衝動的に瞑った目を恐る恐る開ければ、そこには見覚えのあるようなないような、どこにでもある住宅街の風景が広がっていた。地面に座り込んでしまっていたので慌てて立ち上がり辺りを見回す。人の気配はしない。体どころか衣服のどこも濡れていないぼくは、道のど真ん中に立ち尽くしていた。
「はやく、こっちだよ」
鈴の鳴るような声だった。白くて華奢な腕に掴まれてぼくの足は動き出す。なにが起こっているかわからなかった。なにひとつとしてわからなかった。ここは一体どこなんだろう。部屋の前に水槽があったのはなんで? ノックは誰がしたんだろう。今ぼくの手を引いているのはどこの誰なんだろう。沸き続ける疑問は留まることを知らず、すぐに頭をいっぱいにしてしまう。結構なハイペースで走っているのにもかかわらず、ぼくの体は酸素をあまり失っていなかった。
「はじめてきたの?」
どれくらい走ったのだろうか。それすらわからなくなる。腕の先の人物が振り返って、静かに笑う。
眩しい。目を奪われるとは、こういうときのためにある言葉なのだろう。少女だった。年齢はぼくとそう変わらなく見えるが、それでも少女と形容するのが正しいであろう女性。膝丈の真っ白なワンピースに身を包んだ、麦わら帽子がよく似合っている少女は綺麗な薄桃色の唇を引き上げている。
「ここに外からひとが来るのはひさしぶりなの。よかったら帰ってしまうまで少しおはなししない?」
「え、あ、はい…それはいいですけど、」
「満たされれば帰れる。だいじょうぶよ」
悲しそうに彼女は言う。ぼくは未だに彼女から目が離せない。先程までの疑問がすべてどうでもよくなってしまうくらい。それくらい彼女に目も心も奪われていた。簡素なベンチにふたりで腰かけてぽつりぽつりと会話を始める。彼女の質問にぼくが答えてばかりで、彼女のことはひとつとしてわからないし、ぼくが話してばかりだったが、彼女は楽しそうだったしぼくも楽しかったのでそのままそれを続けていった。
「あなたはどうやってここにきたの?」
「それはぼくもわからないんだ。ドアをノックされて、開けたら大きな水槽があって、気づいたらそれに飛び込んでいたんだ」
「向こうの季節も夏だった?」
「うん? うん。夏だったけど」
「ふふ。そっかぁ。じゃあ、そろそろだね」
ずうっと続いていた会話はそこで途切れる。ぼくは何故だか声がでないどころか口をひらくこともままならなくなってしまう。時間にして二時間は談笑をしていたはずなのに、太陽が少しも動いていないことに気づいた。彼女が立ち上がり、ぼくの腕を引く。夢でも見ているのだろうかと、そこで初めてそう思った。
「わたしがここにきみを呼んだの。ごめんね」
彼女の目から涙が滴る。拭ってあげなくちゃいけないのに、ぼくの体は硬直したままだ。
「一度しか言わないからよく聞いてね。向こうに返ったら、あなたは何かを失うわ。それが何かは、申し訳ないけれど今はわからない。恐らく記憶の一部だと思うんだけど…。そう、それで、帰ったらそれを絶対に思いだしてほしいの。今まで何人にも同じことを言ってきたけれど、思いだせたひとはひとりもいないのよ。みんな、忘れてしまったことすら忘れてしまうの。なくしたことに気が付かなければ、それはなくしていないと同義になるのよ」
言われている意味がよく理解できない。でも、一言一句聞き漏らさないように神経を集中させる。彼女の目は真剣だ。
「思いだせたら、また会えるわ。きっと。ひさしぶりにたくさんお話できて楽しかった。ありがとう」

さよならときみがくちびるをうごかしたあの一瞬は、呪いみたいにぼくに襲いかかって、この目をずうっと縛るんだ。

目を覚ましたらベッドの上にいた。体にまとわりつく衣服が気持ち悪い。扇風機の前まで移動してぼうっとする。いつ眠ったんだっけ。思いだせない。金魚にエサはもうやったんだっけ? 眠る前の記憶がひどく曖昧だ。なにかを忘れているような、そんな気がする。けれど、何かはわからない。風が入り込んでカーテンが揺れる。白いレースがふわふわと動く様子に懐かしさを覚える。
「なんだ…?」
白い何かが、揺れていたような、そんな気がする。気がするだけなので考えるのをやめよう。さよならと、誰かの声が聞こえた。

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