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メロンパンナちゃんと価値観

友人とZOOM飲み会をしているときに、ふと気付いたことがある。

人の美醜の感覚は、あまりにも曖昧なものだということだ。

「歴史が違えば、美人」などという、非常に失礼な言い回しが存在する。しかし、歴史が違わなくても、私は自分の美醜の感覚に自信が持てない。一定の基準なんぞ簡単に覆るのである。

それがメロンパンナちゃんの存在である。

どう考えてもモンスターである。

少なくとも、私はそう思う。メロンパンに目と鼻と口がついているのである。恐ろしい容姿に違いない。いかに「ちゃん」付けしようとも、実写映画なんぞ作ろうものなら阿鼻叫喚であろう。もちろん、フィクションの世界であることは重々認識している。そしてこれは、単にアンパンマンの世界を大人げなく「こけ落とす」話ではない。価値観の話である。メロンパンナちゃんは一般的に、かわいい存在とみなされ、受け入れられている。しかし、そのかわいい、かわいくないの判定はいったいどのように行っているのかということである。アンパンマンとその取り巻き達がメロンパンナちゃんをかわいい存在として扱っているから、かわいいと判断しているのではないだろうか。だれもメロンパンの美醜の判定の基準など持ち合わせていない。私はアンパンマンが、さもメロンパンナちゃんがかわいい存在であるかのように扱うので、「なるほど、メロンパンナちゃんはみんなのヒロイン的存在なのだな」と納得し、時には納得さえする間もなく当たり前の「常識」として受け入れているのだ。

「自分の目で見て判断する」とか「自分の価値観を大事にする」とか言う前に、自分のこうした性質をよく自覚している必要がある。

おそらく誰だって、少なくとも私は、不特定多数の決めた価値観の影響を強く受けて判断をしている、ということだ。

初老の男性に「美人は三日で飽きる、ブスは三日で慣れる」と言われた話を思い出した。SNSにでも上げようなら、炎上必至である。しかし、この男性は私に対して教訓をくれた。皮肉ではなく、真心からである。男性は結婚していて、奥様と今も幸せそうに暮らしている。結局、その奥様が、男性にとって「美人」だったのか「ブス」だったのかは聞かなかったが、男性はその結婚に大いに満足していたようだった。奥様も同様である。要は「顔は大事なことではない」と言いたかったのだ。

シンプルで当たり前の格言であっても、実際の経験が伴うなら金言となる。

どうせ誰かの価値観に影響を受けるなら、その「誰か」だけでも自分で選びたい。美醜を判定してはいけない、とは思わない。容姿がいいことは一つの特権だ。実際に「美しさ」だけで、時には「醜さ」だけで、自立し、生計を立てている人たちもいる。私だって、不特定多数の「誰か」が決めた美しいものに心惹かれる。それが悪いわけじゃない。でも、当たり前だけども、それだけではない。

ZOOM飲み会で、私の友人が言っていた。

「メロンパンナちゃんは、かわいいだけじゃなくて、勇気も持ち合わせているんだぜ。」

まさに金言だと感じたのだ。

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