『格好良い/ダサい』vs『大人/子ども』

昔から、人と違うことが格好良いと思っていた。

小学校低学年の頃は周りが怪談レストランを読んでいる中で精霊の守り人を読み、学年が上がると 「まだ図書室の本読んでんの?」 って顔をして森見登美彦や万城目学を読んでいた。
中学校ではラジオから知り得たロックバンドを聴き漁り、高校生になれば「お笑いはテレビで見るものではない」とライブに足を運んだ。
これが僕にとっての『格好良い』だった。

それは趣味に限った話ではない。人、物、空気、全てに言える話だ。
20分休みに真っ先に校庭でドッヂボールするやつらはダサいと思っていたし、文化祭の準備を真面目に取り組まないやつらのこともダサいと思っていた。
大学生になった今も、彼女がほしいと騒ぎ、インスタグラムに酒を飲んでいるストーリーを片っ端から載せているやつらのことも『ダサい』と思っている。本当は自分も生きている証を残したくてたまらないのに。

これらのミソは、僕が『ダサい』と思っていることは誰かにとっての『格好良い』で、誰かにとっての『ダサい』を僕は『格好良い』と思えてしまうことだ。

けれど、こういった感情は 「斜に構えてる」 「尖ってる」 「イタい」 「若い」 などの言葉で片付けられてしまう。
実際、そうなのだと思う。
そして、それに抗うことをまた『格好良い』と思っていた。

去年の暮に僕は20歳になった。
『大人』になった。
とはいっても、ほとんどの人が20歳を迎えても大人になった実感はないのではと思う。年を重ねたところで何も変わらないというよりも、もっと前から大人の意識を植え付けられているような気がしている。
親に泣いて物をねだることや、物事がうまくいかなくてむやみに怒ることのような、『子ども』がすることとされていることなんて、ずっとずっと前からしていないだろう。

僕は蚤の市で見つけたハンドメイドの財布を使っている。がま口とは似て異なった留め具が付いていて、布にはトランプのキングやクイーンが描かれている。本来は小銭入れ程度の用途のために作られたものだが、僕は財布をそれしか使っていない。
僕はそういったものが好きで、猫のシャツを着て、ムーミンのカレンダーを掛け、鍵入れにはペンギンがいる。周りの人たちの趣味とズレていることは分かっているが、それで良かった。

周りを見るとブランド物や革の財布を使っている人がほとんどだ。今まではハンドメイドの財布を使うことが僕にとっての『格好良い』だったので何も感じなかったのだが、あるときふと周りを見て、「もう『大人』やもんな」 という感情があった。

すごく嫌だった。今まで僕が頭の先から爪先の先まで必死に測ってきた『格好良い/ダサい』の物差しが粉々になった気がした。

気づくのが遅いことは確かだ。けれど物に限った話ではなく、大人になるにつれて、自分や、自分が『格好良い』と思っている人や物が、僕が毛嫌いする『ダサい』と統合されていってるような感覚がある。

物事を『格好良い/ダサい』の物差しではなく、『大人/子ども』の物差しで測らざるを得なくなっている。というより、無意識でそう測っている。

『大人』が『ダサい』なんてそういうことではない。20年間の人生でダサい大人をたくさん見てきたが、それと同時に格好良い大人が多く存在することを僕は知っている。

ただ、僕の大事な『格好良い/ダサい』の物差しを無理やり上書きされていることがどうしようもなく嫌なのだ。

僕が『ダサい』と思っていたものの多くは『大人/子ども』の物差しでは『大人』である。けれど、大人であることだけが正解ではないと僕は理解している。また、正解だけが人間の進むべき道ではないとも思う。にも関わらず、僕は正解に当てはまるよう膝を曲げ首を折っている。これもまた、無意識に。

その自分を僕は『格好良い/ダサい』の物差しで測っているのか、『大人/子ども』の物差しで測っているのかも分からない。

ただ僕はそんな自分を見て、無性に泣きたくなる。

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