実家犬の容態があまり良くないようだった。
先週スキャンをした際に肺に癌があり、精密検査は体力的に難しいためはっきりとしたことはわからないが脳腫瘍の可能性もあるとのこと。
朝も痙攣が止まらず無理やり薬を飲み込ませてしばらくするとようやく落ち着いたようだった。もうほとんど目も見えないようで部屋の中を歩くのもかなりしんどそうだった。
もう本当にあと何日かの状態なんだろうなと思う。
今は両親がどうしてもはずせない用事で家をあけるので有給を取得して介護をしてる、転んだりぶつかったり部屋の変なとこに引っかからないように、人間のできることはただ見守ることしかもうない。
介護のため実家犬の室内徘徊コースを観察していると、徘徊コースはかつて実家犬が健康だったとき家の人間を探すときのコースをトレースしているようだった。
まず最初に玄関、キッチン、リビング、俺の部屋、そして寝室の扉の後ろを順番に何周もトボトボと歩いていた。
この寝室の扉の後ろは俺が実家犬とかくれんぼをするときによく使っていた隠れ場所だった。
ふと実家犬がお留守番してたときも俺を探して寝室の扉の後ろを覗いていたのだろうかと思った。
もう真っすぐ歩くこともできず、俺が帰ってきても立ち上がることもできなかったのに、その健気さがあまりにさみしかった。
一人だったから俺は静かに号泣してしまった。

実家犬は犬だからもちろん人間の言葉はわからないが、常々俺が実家を出るまでは死ぬなということを伝えてあった。俺は大学を卒業したらたぶんニートになるけど、小説家かなんかしらで成功して実家を出るまでは元気でいてもらわないと困ると犬の平均寿命から逆算したりしていた。
実家犬に待つあまり遠くない未来を想像したくなくて直視できなくて、そんなことを思っていた。
結局惰弱な俺は社会という大きな流れにものの見事に巻き取られ、労働を開始してほどなく実家を出ることになった。
実家犬は帰るたびに老いていた。
目が悪くなり、口から異様な臭いがするようになり、小さな段差で躓いたり、アクションに対して反応が数テンポ送れるようなことが増えた。
動物病院で腎臓の数値が悪いと言われたと母からしきり電話が来るようになり、ある日痙攣の発作が出て一気に容態が悪化したとのことだった。

犬が死ぬとどんな気持ちになるのか想像できなかった。どちらの祖父母もいまだ健在で、遠い親戚がぽっくり死んだくらいで、物心ついてから本当に愛着のある生命の終わりにこれまで寄り添ったことがなかった。
だから犬が息を切らせて部屋をグルグル回り始めたとき、あ、死ぬなとなったとき、心の底から本当にありがとうと思った。
生きててくれてありがとう。
友達になってくれてありがとう。
俺が実家出るの待っててくれてありがとう。
本当に良い子だったね、と。
そんな風に思ったのだった。
最初に家に来たときとか、鬱病すぎて夜にしか散歩できなかったとか、窓際で日向ぼっこしたとか、全部思い出してきてもう泣くしかなかった。それでも本当にありがとうと思う。
そんな風な気持ちになったのだった。

死はばかでかい何かじゃない。
死はばかでかい何かじゃない。


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